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小さな島国の首都はドラマがいっぱい

(Newsweek 2001.8.15/22 - 古都で暮らす)


地中海に浮かぶマルタ共和国は英語でOK

ウィリアム・アンダーヒル


学生時代は西洋史なんて興味なかった、と桃坂麻由子は言う。単位を落とさない程度に勉強しただけだ。
当然、地中海に浮かぶ小さな島マルタの名は聞いたこともなかっただろう。
今は違う。ヨーロッパの歴史とマルタ共和国(首都バレッタ)についての知識なら、桃坂はどんな優等生にも負けない自信がある。なにしろ、それを仕事にしているくらいだから。
マルタ島に住みついて10年、造船技師のマルタ人と結婚している桃坂は、いま30代半ば。
1年がかりの研修を終え、日本人として初の公認観光ガイドになったのは5年前のことだ。

マルタ島の面積は、250平方キロ足らず。とはいえ、その歴史はドラマチックなまでに多彩で、新石器時代の遺跡からイギリス植民地時代の赤い郵便ポストまで、時代ごとの遺産に満ちている。
「まるでミニチュアの世界。絵本を見ているみたい」と、桃坂は言う。
「歴史の勉強は私の目を開かせてくれた。マルタには見るべきものがたくさんある。
そのことがわかって、とてもうれしい。」
マルタを訪れる日本人観光客は、10年前に比べて8倍になり、今や年間約8000人。
「日本人は島民の親切な態度や美しい海岸線に魅せられる」と桃坂。
「それに、こんな小さな島に無数の名所があることに驚いている。」

マルタが史跡の宝庫になった背景には、その地理的な条件がある。
地中海のほぼ中央に位置しているし、海岸線が複雑に入り組んでいるから、海運の中継港としても軍事基地としても最適。となれば、大国がほうっておくはずがない。
隣のゴゾ島ともども、古代ローマ帝国やスペイン、フランス、イギリスに支配され、1964年にようやく独立を遂げた。


観光客が人口の3倍に

マルタ人にはラテン系と北アフリカ系の血が交じり、独特な言語を発展させてきた。一方で2000年にわたる外国の支配は、住民に適応力と柔軟性をもたらした。
「マルタ人の特徴は地中海民族そのもの。でも、歴史は彼らに、賢い判断をすることや、どのような状況でも最善を尽くすことを教えた。」と、桃坂は言う。

観光名所の多いマルタだが、最も知られているのは聖ヨハネ騎士団の遺跡だ。
1530年、神聖ローマ皇帝カール5世によってマルタの領有を認められた聖ヨハネ騎士団は、オスマン・トルコ帝国の侵略にそなえて、この島を1798年まで要塞として利用した。

騎士団の最も壮大な遺産は、ほぼ完全に17世紀の姿をとどめた首都バレッタだ。
軟らかい黄色の石灰石を敷き詰めた碁盤の目状の小道、点在するバロック様式の教会や壮大な建造物。これら全体を、巨大な城壁が囲んでいる。
第二次大戦中には、ドイツ軍が154日間にわたってバレッタを爆撃した。
だが、要塞はもちこたえた。この功績により授与された聖ジョージ勲章はイギリスで最高の栄誉とされるもので、今もマルタの国旗を飾っている。

マルタにあるのは、侵略者との戦いの跡だけではない。
第一次大戦で連合国の一員として戦い、地中海で戦死した日本人兵士60人の記念碑もある。昭和天皇が皇太子時代の1921年に植樹した木は、今も残っている。
この島を支えているのは観光産業だ。
外国からの観光客は年間120万人で、島の人口の3倍を超える。
輝く太陽、紺碧の海にビーチ、安い物価、そして豊かな文化遺産。
日本友好協会の創設者で会長のエドワード・サンムトは、「10分も車で走れば、ビーチか寺院にぶつかる」と言う。


地中海で午後のお茶を

イギリスの植民地時代が長かったため、島民は流暢に英語を話す(英語はマルタ語とともに公用語)。
島民が親切で愛想がいいのは、外国人との接触が長かったからかもしれない。
「住民はとても親切で、外国人に対して忍耐強い」と、マルタ在住19年の渡辺義夫(54)は言う。「彼らは相手がわかるまで、根気よく教えてくれるんだ」
マルタに住む日本人は、ガイドの桃坂、電子機器エンジニアの渡辺を含め10人に満たない。
渡辺は、植民地時代がもたらした興味深いライフスタイルを説明する。
「イギリス式のたっぷりとした朝食をとり、午後にはビスケットでアフタヌーンティーを楽しんでいる」
 もう少し厄介な特徴もある。「仕事への考え方が、日本人とはまるで違う。日本人は時間をむだにしない。でも、ここでは労働時間の半分はおしゃべりに費やされている」と、渡辺は言う。
歴史はこの島と島民の文化に、さまざまな影響を与えてきた。しかし、地中海民族特有のおおらかさまでは消せなかったらしい。


バレッタ(Valletta)

人口  7100人(うち日本人は6人)
気候  温暖な地中海性気候。年間を通じて雨は少ない。

歴史

地中海に浮かぶマルタ島は、紀元前8世紀からフェニキア人やローマ人、アラブ人などに次々と支配され、16世紀半ばには神聖ローマ帝国の城塞都市に。
18世紀末にナポレオンに占領されるが、その後イギリス領となり、2度の大戦では前線基地として多くの血が流された。


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