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消えゆくW杯における欧州の優位

ヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger: former U.S. Secretary of State)

(2002年7月8日 - 読売新聞「地球を読む」)


アジアの台頭

 実に幸運なことに、私は1970年以来、計7回のワールドカップ(W杯)を現場で観戦した。
機会を逸したのは、32年間で2回だけ、残念ながら、今年のW杯がその一つだった。
だが、全試合のうちの約半数をテレビで見た。
アジアとの時差の関係で、午前2時半から観戦を余儀なくされる試合も多かったが、真のサッカーファンにとって、そういった不便は、苦労どころか勲章ものである。
しかもそれは、胸躍る体験だった。2002年のW杯は、どんなスボーツよりも世界中の血をわかすサッカーにとって、革命の始まりとなった。
W杯が欧州及び西半球以外の場所で開催されたのは、これが初めてだった。
二つの国が共催したのも初めてだったし、しかもその二か国は、歴史的に根深い不信感を抱く韓国と日本だった。

 二つの主催国チームに対する国民的な声援は、かつて経験しなかったほどの広がりを見せた。両国とも、まだW杯では一勝もしていなかった。
今年、日本は16強に入り、韓国は奮い立って準決勝に進んだ。
もちろん、日韓の躍進を助けたのは地元ファンである。
今後のW杯では、これほど大規模な応援は期待できまい。
だがこの両国と、そして、同じく何の前評判もなかった米国の活躍は、地球規模のサッカーの勢力均衡図に変化が迫っていることの予兆となった。
これは、第二次世界大戦終了後の、地球規模の政治的な勢力均衡の変容にも匹敵する変化である。

  これまで世界のサッカーを支配してきたのは、欧州と中南米だった。なぜなら、このスポーツが最初に根付いた土地だからである。
ここには、各国が互いにしのぎをけずる大きなリーグ戦があり、それを通じて選手を発見し、訓練を施し、選手獲得を争うカがあったからである。
さらに、中南米でも欧州でも、国同士の競争を上回る、地域規模の競争が発屋を続けてきた。
その結果、各国内のニ、三の名門クラブが最も優秀な選手とコーチを独占し、その間で地域リーグの優勝を持ち回り、そしてプレースタイルの均一化を進めてきたのである。

2つの古典

 もちろん、ある程度まで国別の違いは残っている。
今回のW杯の決勝戦では、二つの古典スタィルの模範が示された。
多くの意味で、世界の守備的サッカー文化の極致を体現するドイツと、目下のところ、創造性と直感のサッカーの先頭に立つブラジルである。
さる70年代以降では、78年を除いて、このどちらかの国が必ず最終戦まで進んだのは、偶然ではない。
そして、今年、双方ともよく戦った。
だが、最終的には、僅差ながらも、創意工夫の才能が、組織化された堅陣を打ち破ったのである。

 しかし、現在のようなタイプのサッカーに支配されるW杯は、これで最後になるかもしれない。
サッカー市場がグローバル化しているからである。
中南米とアフリカの選手たちがアクロバット的な動きでは優位を保っているものの、様々な諸国の選手の技量に、もはやさほどの違いはない。
守備に最重点を置く堅苦しいスタイルが支配的なのは、サッカーの人材の最も多くを、依然として欧州が擁しているからだ。
フランスやアルゼンチンなど、これまでの攻撃型の雄が早々と退場した理由も、そして準々決勝から決勝まで(3位決定戦を除く)の7試合で、90分の規定時間中に記録された計8ゴールのうちブラジルが5点で、ドイツが2点だったことも、この守備型の支配によって説明がつく。
これに伴い、サッカーは数学の方程式なみに複雑になってきている。
各チームは、相手の弱点や、守りの手薄な範囲を探し、あるいはドイツのように選手の背の高さの違いを利用しようとする。
こうして試合巧者が互いに弱点を探り合い、最後に片方が決定的な突きを入れる戦術は、熱烈なサッカーファンにとって、フェンシングを見るような魅力がある。

 一方で期待されるのは、米国を含む新しいサッカー強国に先導されて、新しいスタイルのサッカーが台頭してくることである。
欧州の支配は、運動能力の優位でなく、洗練された選手層の厚さと、コーチの良さに墓づくが、選手の層は世界的に厚くなり、また欧州以外の各国の代表チームも欧州人の監督コーチを雇っている。
韓国と日本は、欧州人の監督のもとでW杯の初勝利を得ばかりでなく、ずっと上位まで勝ち進んだ。かくして、欧州サッカーの比較優位は消滅する方向にあるのである。

 非の打ち所のない連携プレーと優れた体力調整と容赦ない攻撃で、相手を疲労させることによって勝利を得ようとする形のサッカーでは、チームワークと熱烈な愛国心という、いわゆるアジア的価値が真価を発揮するだろう。
日本と韓国がその攻撃的なスタイルをさらに進化させていくのは間違いない。
また中国も、統制のとれた動きによって、次の次のW杯までには重要な役割を演じそうな予兆を示した。
そして既成のサッカー強国は、ブラジルが攻撃的スタイルにもかかわらず、いや恐らくはそのせいで、最後の2試台は1点も与えなかったことに注目するだろう。

 米国代表チームの将来も、この変化の中にある。
米国は初めて準々決勝に進み、強大なドイツに1対0の辛勝を許したのみだった。
世界有数のサッカー強国を相手に持てる力を十二分に発揮したことは、米国にとって長期的な意義がある。コーチに恵まれれば、米国の選手たちは、ほかのスポーツと同じように、圧倒的な競争力を発揮することができる。

 もっと急速に進歩しそうなのが、アフリカのサッカーである。
これまで3回のW杯で、アフリカの計4チームは、アクロバット的で楽しい、大会で最も魅力的なサッカーを演じた。
どのチームも、最後は息切れしたが、これは経験と体調整備の不足、そして恐らくは本国からの支援体制の欠如が原因だった。
2010年のW杯が、予想通り南アフリカで開催されれば、それが刺激となって、こうした要因はすべて克服されるかもしれない。

外部査察導入を

 懸念材料があるとすれば、それは国際サッカーの組織問題である。
統括組織の国際サッカー連盟(FIFA)は、スボーツの運宮団体から、地球規摸の巨大ビジネスに成長した。
だが、組織が余りにも時代遅れで場当たり的なため、頻繁に内紛が起き、それが表ざたになるのを防ぐことができない。
こうした内紛は、近いうちに大きな危機へと発展し、世界中の人々を魅了している事業を台無しにしかねない。
望ましいのは、例えば国際オリンピック委員会(IOC)が90年代に行ったように、FIFAが自ら外部査察の制度を導入することである。
そこから生まれる透明性や内部の結束によって、FIFAは情熱と希望を取り戻し、世界に興奮と団結の一か月間をもたらすことができるだろう。


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