(Newsweek Japan 1999.4.21)
「思いきった行政改革と都庁のスリム化を断行する」
「これ以上の人員削減による行政改革は信憑性に乏しい」
「大型公共事業を縮小する」
4月11日に投票が行われた東京都知事選挙の選挙戦で、立候補者たちは財政再建に取り組む決意を表明していた。
東京だけではない。
大阪や神奈川などでも財政問題は大きな争点となった。
地方財政の危機は深刻だ。
赤字決算(歳入不足)に陥って、「倒産」寸前の自治体もある。
もちろん、民間企業と違って自治体が実際に倒産することはない。
だが、赤字額が一定割合を超えると「財政再建団体」として国の管理下におかれ、財政再建計画を立てなければならなくなる。
民間企業に例えれば、倒産して管財人の管理下で更生計画を立てるのと同じような状況だ。
自治体が再建団体に転落するのは、地方の一般財源である地方税、地方交付税、地方譲与税の合計額の5%(市町村は20%)を超える赤字が生じた場合。
現在、財政再建団体に指定されているのは福岡県赤池町だけだ。
今の財政危機は、市町村よりも都道府県レベルのほうが深刻だ。
都道府県の税収が景気動向に大きく左右される構造になっていることが、その理由だ。
都道府県の税収の柱は、都道府県税収入額の約3分の1を占める法人事業税。
課税対象が法人所得であるために、景気が悪ければ税収が減る。
これに対し、市町村の税収の柱は市町村民税と固定資産税で、景気の影響を受ける度合いは低い。
「地方税制の欠陥が表れた」と言うのは、元自治事務次官で内閣官房副長官も務めた石原信雄・地方自治研究機構理事長だ。
都道府県のなかで財政悪化が目立つのは、大阪、東京、神奈川、愛知など大都市圏をかかえる自治体だ。
歳入に占める法人事業税の割合が高いためだが、その一方で大都市圏であるために人件費がかさむという事情もある。
人口密集地である政令指定都市は、住民の数に見合った警察官や学校教員を配置しなくてはならない。
たとえば神奈川県の場合、今年度当初予算の歳出で、人件費が半分を占めている。
しかも、警察官や教員の数は国によって基準が決められているため、大幅な削減はむずかしい。
「歳入の柱である法人事業税は不安定で、歳出の大きな要素である人件費は弾力性がない。
この収支構造の欠陥が厄介な点だ」と、石原は言う。
企業や人が集中していて「豊かであるはずの大都市圏の財政を、人件費が圧迫している」と指摘するのは、東京大学の神野直彦教授(財政学)。
「政令指定都市所在地の財政は、もともとゆがむような仕組みになっている」
ニューヨーク市は1970年代に、財政危機に直面した。(「ニューヨークの経験に学べ」を参照)
同市はこのとき、行政サービスを一部切り捨てて再建に努めた。
おかげでゴミ収集車が来なくなり、警察官が減ったために治安も悪化した。
もっとも、日本の自治体が「倒産」して財政再建団体になっても、同じことが起きるわけではない。
地方自治の概念も制度も、アメリカとはまったく異なる。
アメリカの自治体は自力で運営し、財政が破綻しても自力で更生しなければならないが、日本では国が面倒をみてくれる。
それはもともと機関委任事務と称して、国が地方に戸籍・住民登録や河川の維持管理などの仕事を委任しているからだ。
東大の神野教授によれば、都道府県の事務の85%、市町村では45%を機関委任事務が占める。
つまり、地方財政の危機は「国が原因をつくっているようなもの」なのだ。
だからこそ国が地方財政再建に手を貸すわけだが、もちろん限度はある。
あくまで最低限の行政サービスを行う範囲内であり、国が定めた水準を超えて都道府県が独自に行っていたサービスはなくなってしまう。
たとえば、老齢者や乳幼児向けの医療負担金などのうち、地方独自の分はカットされるだろう。
何よりも、再建団体に転落すると「自治体関係者の屈辱感は測り知れない」(自治省)という。
実際、自治体は再建団体転落を回避するのに必死だ。
神奈川県は、県有財産を売却してそれを改めて借りる「リースバック」という手段を用いてまで、収入確保に走った。
この手法を使えば売却資金が入り、賃借料は一定金額を毎月あるいは毎年支払うため、一時的に手元資金が楽になる。
今の都道府県の財政危機を立て直すには、税の収入構造を変えるのも一案だと、石原は言う。
法人事業税を収益に課税するのではなく、企業の規模や従業員などに課税するやり方にシフトするというのだ。
もちろん、今の不況下では企業側が納得するはずはないが、「好景気がめぐってきたときがチャンス」と、石原は言う。
地方分権化に向けた税制シミュレーションを行っている政策シンクタンク「構想日本」の加藤秀樹代表は、「本来、地方自治体は独立した行政府なのだから、自らの責任で歳入と歳出のバランスを取るべき」と語る。
構想日本のシミュレーションによると、地方財政力を強め、自治体間の財政力格差を縮小する税配分の1つは、消費税5%分を地方自治体に移譲するというもの。
現在でも消費税5%分のうちの1%分は地方に配分されているが、全部を地方に回せば国への依存度は下がり、都道府県間の格差も縮小するという。
地方税のあり方を変えて、地方財政を自力でまかなうという考え方は、自治体間の格差を広げることになるとして、これまで具体的に議論されてこなかった。
加えて、加藤が言うように「国から金をもらっているほうが自治体にとっても楽」という事情もある。
自治省の田村政志財政課長も「黙っていても財源はやって来る、住民はサービスを受けるだけという考えが、自治体側にも住民側にも広く見られる」と話す。
確かに、財政再建を住民がどう考えるのかが問われているのに、住民に危機感が感じられないのはそうした考えが強いからだろう。
それでも最近の傾向からみると、財政面を含めていっそうの地方分権を求める声は今後も強まるはずだ。
そのためには地方への財源移譲がなければならず、真の地方自治を確立するには、おそらくその道しかない。
しかしそのときには、ニューヨーク市民が経験したような試練も覚悟しなければなるまい。
国に頼り、自立心の乏しい日本の自治体の首長、議会、そして住民は、その試練に耐えられるだろうか。
「破産」寸前の危機から見事に立ち直った1970年代のニューヨーク市の財政再建劇に日本の自治体は学ぶべきことがあるはずだ。 |
東京都など深刻な財政難にあえぐ日本の主要自治体にとって、1970年代後半のニューヨーク市の経験は教訓になるはずだ。
「破産」寸前の危機から財政再建を成し遂げたのだから。
「ニューヨーク市はデフォルト(債務不履行)の危機に直面している。」
市長がこう発表したのは1975年春のこと。
緊急措置を講じないかぎり、夏に期限を控えた市債30億ドル分の償還財源が確保できない、というのだった。
債券市場はもとより、全米の州や市に衝撃を与える発表だった。
連邦政府に次ぐ予算規模をもつニューヨーク市がデフォルトに陥るという事態になれば、他の自治体の債券発行も不可能になるおそれがあった。
法的な定義からすれば、ニューヨーク市は破産したわけではない。
だが、実態は破産同然だった。
ニューヨーク市の財政は州の管理下におかれ、多数の警察官や消防士、清掃員が解雇された。
連邦政府の融資を受けなければ年内に財政が破綻する状況だった。
しかし、この財政危機によって、ニューヨーク市の財政基盤は健全化する結果になった。
それにもまして重要なのは、それまで対立関係にあった市と州の当局、労働組合、財界が、市を救うために一致協力を余儀なくされたことだろう。
こうした変化の触媒役を果たしたのが、債券市場の厳しい市場原理だった。
アメリカの場合、市債にはなんの保証もない。
連邦政府などが償還を肩代わりするという仕組みはなく、投資家が頼れるのは市の財政報告や格付け機関の評価だけだ。
それでも株式や社債よりは安全とみなされ、銀行や一般投資家が大量の債券を保有している。
そんななか、デフォルトに陥れば投資家への信用を失い、ニューヨーク市は市債による資金調達が何年間もできなくなってしまう。
ニューヨーク市の公共事業の費用は、ほぼすべて市債でまかなわれている。
その市債が発行できなくなれば、ニューヨークは住みにくく危険な町になり、企業や市民が逃げ出して税収が減ることにもなってしまう。
そうした悪影響は、ニューヨーク州にも及ぶ危険があった。
州は歳入の半分以上をニューヨーク市に依存していたからだ。
事実、ニューヨーク市財政危機の最悪期には、州債の市場も冷え込んだ。
そればかりか、全米の主要都市にも影響は及んだ。
債券投資家の間に不安が広まり、市債の発行中止や利率引き上げを余儀なくされる市が相次いだのだ。
金利の上乗せ分は総額17億ドルに及んだという統計もある。
ニューヨーク市の運命の日は、7億9200万ドル相当の市債が償還期限を迎える6月11日だった。
エーブラハム・ビーム市長(民主党)は、連邦政府と州政府への支援要請に奔走した。
だが、ジェラルド・フォード大統領(共和党)の反応は冷たかった。
財政危機はニューヨーク市自身が招いた問題だ、というのだ。
財政難の都市がほかにも存在するなか、連邦政府による救済の先例をつくるのは避けたいとの思惑からだった。
一方、ニューヨーク州議会はやっと行動に移りはじめた。
州財政にも危険が迫り来る状況に、手をこまぬいているわけにはいかなくなったからだ。
州議会は6月10日の夜明け前、自治体援助公社(MAC)という機関の設立を可決した。
トップには投資銀行家のフィーリックス・ロアティン(現・駐仏大使)が任命された。
MACが独自の債券を発行し、それで調達した資金をニューヨーク市債の償還にあてる、という仕組みだった。
この債券は、ニューヨーク市の特定財源によって償還を保証された。
これと並行して、州の緊急資金も市に注入することになった。
MACの設立は、投資家の信頼回復に向けての措置だった。
しかし、10年間にわたって進行していたニューヨーク市の財政危機にとって、それは一時しのぎの解決策でしかなかった。
市の財政が赤字に転落したのは、1965年のことだった。
政治力の強い市職員組合の要求で、賃金の支払いがふくらんだのだ。
同じころ、貧困層への福祉も急速に拡大した。
そうした支出を支えていた好調な経済も、1970年には下降に転じ、その後1976年まで景気は落ち込み続けた。
景気後退で税収が減るなか、ニューヨーク市は売上税と資産税の引き上げ、法人と個人に対する新税の導入で対処した。
だが税収減は止まらなかった。
失業率は急上昇し、企業倒産が増加した。
土地と税金の安い近隣の州に移る企業も相次いだ。
1970年から1975年まで、ニューヨーク市の就労人口は減少の一途をたどった。
つまり納税者が減ったのだ。
その一方で、市職員の数は増え続けた。
市は景気後退下での再増税を避けるべく、借り入れで財政をまかなおうとした。
帳簿上のからくりで、公式的には均衡財政ということになっていた。
だが、市債の発行が立て続けに増えるにつれて投資家たちは、市が借金返済のために借金をしていることに気づく。
1974年10月、ニューヨーク市は、米史上最大規模の非課税市債を発行した。
だが、それでも市場の反応は冷たかった。
ニューヨーク市債はすべて金融機関が引き受け、事前に決められた量を投資家に売る仕組みになっている。
売れ残った場合のリスクは金融機関が負う。
1974年10月の市債発行では、一部の金融機関が損失をこうむった。
大手金融機関は、短期市債に超高金利を要求しはじめる。
そして1975年5月には、ついに市債の引き受け手がなくなった。
だがニューヨーク市には、さらなる借り入れが必要だった。
そこでMACが、7〜9月にそれぞれ10億ドル相当の債券を売ることになった。
それで投資家の信頼を取り戻し、10月には市債の発行を再開させるというもくろみだった。
7月に発行されたMACの債券は、非課税で9.5%という高利回り。
おかげで10億ドルの資金調達を達成することができた。
しかし、それもニューヨーク州内で売れただけで、州外ではまったくの不人気だった。
翌8月はかろうじて10億ドルを達成するにとどまり、9月には5億ドルにまで落ち込んだ。
全米の投資家の信頼を取り戻さないかぎり、これ以上の資金調達は不可能だった。
9月には、2つの危機が待ち構えていた。
1つは、市職員の給与と生活保護給付金の支払い日。
もう1つは、短期市債の償還日だ。
最初の危機は、MACを率いるロアティンの政治力で切り抜けた。
市職員組合の年金基金の運用担当者を説き伏せて、市債を購入させたのだ。
第2の危機は、さらに大胆な方策を生むことになった。
州政府が市の財政運営を管理することになったのだ。
倒産した企業に裁判所の管財人が入るようなものだ。
そのために、緊急財政管理委員会という機関が新しく設けられた。
委員長にはヒュー・キャリー州知事が就任し、大企業3社のトップも委員に名を連ねた。
委員会は毎月、市の支出を監査し、新規の契約はすべて委員会の承認が必要となった。
この委員会の最初の仕事は、23億ドルの資金調達だった。
その3分の1は州が借り、3分の1はMACの債券で調達、残り3分の1は州と市の職員年金基金に頼ることになった。
とはいえ、この措置でニューヨーク市の資金繰りがつくのは、年末までにすぎなかった。
そこで再び、連邦政府による救済に注目が集まった。
しかしフォード大統領は、冷淡な態度を変えようとしなかった。
フォードは1975年10月末にも、ニューヨーク市の放漫財政に対する批判を繰り返した。
MACのロアティンは、「堤防の決壊を止める手だては尽きはじめている」と主張し、連邦政府に支援を訴えた。
その一方でロアティンは、モラトリアム(債務の支払い猶予)を打ち出した。
市債の保有者は償還の代わりに、期間10年のMAC債を受け取るか、市債の償還繰り延べのどちらかを選ぶというものだ(このやり方は、後に州裁判所で違憲と判断された)。
この翌月の世論調査では、ニューヨーク市がデフォルトに陥ればアメリカ経済全体に悪影響を及ぼすと考える国民が、全体の69%に及んでいる。
この時点で、フォードも方針を大きく変えた。
大統領の意向を受ける形で、連邦議会の共和党陣営が、ニューヨーク市に融資を与える法案に同意したのだ。
融資は1年単位で、年間15億ドルと決して多くはなかったが、ニューヨーク市の資金繰りを助けるための資金援助だった。
ただし、各年内に利息も合わせて完済するという条件だった。
実質的にみれば、連邦政府はニューヨーク市に何も与えてはいない。
しかし政府は見返りとして、ニューヨーク市に歳出削減と、法人利益と個人所得などに対する税率の大幅引き上げを約束させた。
政府融資に加え、市職員組合の年金基金が25億ドルを追加拠出することも決まった。
これで支援策は完全なものとなった。
1977年になると、ニューヨーク市の財政危機は最悪期を脱した。
地域経済が回復に転じて、税収が増えはじめたのだ。
歳出はなお増えていたが、増加率は歳入の伸び率の半分以下にとどまった。
そして1981年、ニューヨーク市の財政収支はついに黒字に転換した。
これで市債による資金調達も可能になり、州政府による財政管理は1982年に終わった。
予算の削減により、市の公共サービスは大幅に削られた。
教育、警察、消防などがそうだ。
学校の校舎は老朽化し、小学校と中学校の授業時間も一時的に減らされた。
市職員の数は減らされ、公務員の賃金と福利厚生は5年間据え置かれた。
市の清掃員は何度かストを行い、市民生活に大きな支障をもたらした。
1975年12月のストの際には、街中の歩道にゴミがあふれた。
とくに影響が大きかった地区では、住民自らが清掃を買って出た。
ニューヨークを「破産」という最悪の事態から救ったのは、債券市場の圧力だったのだろう。
そしてニューヨークは、地元の金融機関と労働組合が、大きなリスクを引き受けて資金を融通してくれたおかげで救われた。
その過程で、市当局と労組と財界は互いに協力することの大切さを学んだ。
わがままなことで知られるニューヨーク市民も協力した。
自分の町をののしってきたニューヨーカーたちも、共有するものの大きさを思い知らされたのだ。
増税も値上げもやった−ニューヨーク市の深刻な財政危機を救った男−フィーリックス・ロアティンが語る再建までの道のり
1975年、ニューヨーク市は破産寸前の深刻な財政危機に見舞われた。
投資銀行家のフィーリックス・ロアティンは、急きょ設立された自治体援助公社(MAC)のトップの仕事を無給で引き受け、困難な財政再建の任務を見事にやってのけた。
現在は駐仏米大使を務めるロアティンに、本誌テマ・エレンフェルドが話を聞いた。
ニューヨーク市には、事実上「破産」とみなすべき要素が数多くあった。 財政は州政府の監督下におかれ、予算の削減が強制的に行われた。 発行する公債にも買い手がつかなかった。 どこが実際の「破産」とは違っていたのか。 |
ニューヨーク市が、市としての機能を一度も停止させなかったことだ。
多くの人が解雇され、昇給も凍結された。
だが、雇用されている人たちには賃金が支払われていたし、取引代金の決済もすべて行われていた。
福祉サービスも受けることができたし、退職者も年金を受給できていた。
もし破産していたら、市の将来は、まるで見通しの立たないものになっていただろう。
市債の償還や年金、警察官など市職員の給与の支払いをどうすべきかという判断を、すべて連邦政府にゆだねてしまうことになるからだ。
そうなれば市からどのようなサービスが受けられ、どれくらいの税金が課せられるかまるでわからず、市民や企業が不安をつのらせて次々と逃げ出していただろう。
失われる歳入も大きく、それを埋め合わせられるだけの経費削減はできなかったにちがいない。
破産を回避できたからこそ、債券市場以外のところから資金を調達することもできた。
われわれは再建を始めたばかりの時点から、わずかだがインフラ(社会的基盤)への投資を始めた。これを見た民間企業は、ニューヨーク市が破産していないことを知り、投資を増やしていった。
ニューヨーク市再建のリスクを負ったのは誰か。 |
銀行は市や州の公債を多くかかえていたから、常にリスクにさらされていたことになる。
われわれは、連邦政府から15億ドルの借り入れに成功した後、市の年金基金から25億ドルを借り入れた。
これを財政赤字の削減にあてることで、赤字財政からの脱却を図った。
財政危機が表面化する以前から、何年間にもわたり「隠れ借金」があったというのは本当か。 |
そのとおりだ。
当初、赤字は年間5億ドル程度だと思われていたが、ふたを開けてみたら15億ドルにのぼることが判明した。
市の職員の給与が、実際には市の資本支出予算(投資に回すべき予算)から払われていたのだ。
そこで、独立した会計事務所に会計監査を徹底的に行わせた。
これはMACが打ち出したきわめて重要な方針の1つだ。
約1年がかりで赤字の実態を把握した後、新しい会計システムを導入した。
「資本支出予算」とは、公債でまかなわれる大型公共事業費のことか。 |
そうだ。
だが発行された公債が誤った目的で使われていたために、橋や道路、地下鉄、学校の校舎などに振り向ける資金がほとんどなくなってしまった。
おかげで市のインフラはひどい状況になった。
子供たちは、窓ガラスが割れ雨漏りのする学校で勉強していた。
先ほど言ったように、MACはごくわずかだが、これらへの投資を始めていた。
とはいえ、インフラ整備に十分な資金を回せるようになったのは、ようやく財政均衡を達成した1985年以降のことだ。
当時の景気の低迷が、ニューヨーク市の財政危機を引き起こしたといえるだろうか。 |
1960年代には、人々が郊外に流出するとともに民間企業で約30万人分の雇用が失われた。
ところが、その時期に労働組合が政治力を強め、市の職員は30万〜40万人にまで増加した。
1970年代前半には、石油危機のため深刻な景気後退に見舞われた。
こうしたことが続けざまに起きたことは確かだ。
市には巨額の赤字があり、毎年その利払いが雪だるま式に増え続けていったという面もあった。
ニューヨーク市が資本支出予算の流用を抑え、経費削減を行っていたら、財政危機の状態は回避できただろうか。 |
もちろんだ。
困難な問題は起きただろうが、どうにかすることはできたはずだ。
経済が好転する時期までに短期債務は60億ドルにも達していたが、そうした事態は回避できていただろう。
破産していたら、国にも大きな影響が及んだと思うか。 |
そう思う。
ニューヨーク市の経済規模は、ニューヨーク州経済の約半分に相当する。
市が破産すれば、州の破産につながっただろう。
さらにアメリカの金融機関の資本の約20%が、ニューヨーク市やニューヨーク州の破産の影響を受けたのではないか。
予算削減によって、平均的なニューヨーカーはさほど影響を受けなかったといわれているが。 |
それは違う。
われわれはまず、職員の約20%に当たる6万人を削減した。
市職員のなかには、給与の50%が連邦政府から支払われたり、25%が州政府から支払われていた者も大勢いたが、大規模な予算削減を行うため、市が全額を支払っている職員が削減対象となった。
教員や警察官、消防士、清掃作業員などだ。
教員の削減により、学校では教室に生徒があふれた。
清掃作業のサービスも低下し、警察官が減ったため犯罪が増加するという事態も起きた。
増税も行ったし、地下鉄の料金も値上げした。
市立大学の学費も初めて有料にした。
インフレが激しかったにもかかわらず、市の職員の賃金を5年間にわたって凍結した。
これは大変なことだ。
再び深刻な不景気になれば、ニューヨーク市が債務を払えなくなる可能性はあるのか。 |
それはない。
数字からそうした状況はすぐにわかる。
そうなったら、市は緊急対策を取る必要がある。
困難な状況に直面することにはなるだろうが、市の信用が損なわれたり、債務が払えなくなるようなことはないだろう。