2/12(Wed) |
1990年代以降、日本人にとって海外旅行は非常にポピュラーなものとなった。
しかし、私が海外旅行に行った1986年はまだ「夢」の世界であった人も多かったような気がする。
まだ欧州旅行にはアンカレッジ経由で行くか、南回りで長時間かけて旅した時代なのだ。
ソ連という国が健在で、日本発の旅客機はシベリア上空を通過することができなかったからだ。
そんな時代、私は友人のタキが海外へ行くというのに便乗して一緒の旅行に参加させてもらった。
メンバーは全員で5名、そのうちの3名は初対面の人たちだった。
しかも全員が挨拶程度しか英語ができなかったにもかかわらず、個人旅行にチャレンジした。
こういうのを世間ではしばしば無謀と言う。
かつてアンカレッジ空港は日本人で賑わっていた。
トランジットのときに熱いうどんをすすり、店員が話す流暢な日本語を聞いて、私は感慨にふけっていた。
このとき地平線の彼方に見えた太陽が印象的だった。
そして、外国のキャリアにもかかわらず素敵な日本人スチュワーデスが乗っていたことも嬉しかった。
実のところ、私はこのとき生まれて初めて飛行機に乗ったのだった。
ところで、今、彼らはどうしているのだろうか?
私たちはロンドンのヒースロー空港での入国審査のときに質問されることに対して、"sightseeing, student, three days"と答えろと聞いていた。
つまり、入国審査官が質問することは、主として入国目的、職業、イギリスでの滞在期間ということだったのだ。
言うまでもないことだが、私たちがこれ以外の質問をされても答えることはできなかったに違いない。
ちなみに、私は入国審査官から質問される前に、このキーワードを言っていた。
"Sightseeing, student, three days."と・・・
空港からロイヤル・ナショナル・ホテル(Royal National Hotel)までは送迎車が付いていた。
しかし、地理にも疎く、言葉もできない私たちは、店などが開く(shop hour)まで何もすることはできなかった。
回りには日本語は全くなかった。
私は思った。「何でここにいるんだろうか?」
2/13(Thu)-14(Fri) |
私たちは総勢5名のグループ旅行だった。
メンバーは、私、タキ、そしてタキの友人の木村、さらに木村の友人の浩一とノリだ。
私たちが観光の際に頼りにしたのは木村の持っていた「地球の歩き方」というガイドブックだけだった。
私はこのとき、この黄色い表紙のガイドブックが日本人の間で有名なものだとさえ知らなかった。
正直に言って、私はここの観光名所にどうやって行ったかほとんど覚えていない。
初めての海外旅行ということで、緊張しっぱなしだったのかもしれない。
私が覚えているのは、例えば、
ロンドン在住経験のあるデラシネ氏は言う、「ロンドンで食事をするならソーホー(Soho)のチャイニーズ・レストランへ行くといい。但し、シェフが中国人であることを確認しないといけない」と・・・
また、イギリスの格言に「生きるために食べよ、食べるために生きるな(Eat to
live, but do not live to eat.)」というのがある。
これはイギリス人が美味しさを二の次にしているということをよく表しているような気がする。
バークレイス銀行(Barclays Bank)でポンドをスペインのペセタに換えるとき、相手が10,000pts紙幣(=\13,000=£44)をヒラヒラさせながら何か怒鳴っていたのだが、私たちは全く理解できなかった。
今、思えば、相手はこれしか札がない、と言っていたのだが、このとき、私たちは必死で「スモールチェンジ」と叫んでいたような気がする。
私たちはこのとき英語のみならず外貨両替に関しても無知(lack of knowledge)だった!
最後に、大英博物館にて、「英語を話せない観光客は日本人だけ」というのを守衛までが言っていた。
すごく馬鹿にした口調で・・・"Are you Japanese?ha-ha-ha!"
二度とイギリスなんか来るものか!
ロンドン観光名所 (関連サイト 欧州総合リンク, イギリス, ロンドン) |
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国会議事堂 |
ウエストミンスター寺院 |
バッキンガム宮殿 |
ザ・モール |
セント・ジェームズ公園 |
タワー・ブリッジ |
タワー・ブリッジ |
13という数字は欧米人にとって不吉な数字と言われている。
しかし、ロイヤル・ナショナル・ホテル(Royal National Hotel)の夜勤スタッフにとってこの日の夜はもっと信じられなかったに違いない。
この旅行後に私とタキの共通の友人となったノリが言う、「ロンドンで覚えていることはこの事件だけだ。」と・・・
私は友人のタキと彼の友人である木村と同室だった。
観光を終えてホテルに帰った私は死ぬほど疲れていた。
彼らが缶ジュースを買いに行くと言って外出した後、部屋に残った私は、鍵をかけ、あろうことか閂までかけて寝てしまった。
もしかすると、強盗が怖かったのかもしれない。
そして、私が起こされたとき、当然のことながらホテルの部屋のドアの一部は壊れていた。
「真相はこうだ」とタキは言う。
幸いにも私は損害賠償請求をされることはなかった。
私は翌日、必死になって保険会社の日本語サポートに電話をしたが、このことは無駄に終わったようだ。
実のところ、当時のロンドンの通信事情は悪く、他人の家につながることが多く、保険会社には繋がらなかったのだが・・・
ところで、さっきの発言を訂正しよう。
ほとぼり冷めるまで行けません、と・・・
ちなみに、私はこのとき一緒だったタキとノリと、この事件後にもかかわらず毎年のように旅行に行っている。
彼らは言う、小さなトラブルはトラブルとも思わなくなったと・・・
懲りない奴ら(incorrigible optimist)、いえ、親切な方々で・・・
2/15(Sat)-17(Mon) |
「地球の歩き方」にはチップは日本円相当で100円が相場ということが書いてあった。(通貨換算)
言うまでもなく、日本にはチップという習慣はなく、初めて海外旅行へ行った私たちが指標とするチップの相場は「地球の歩き方」以外にはなかった。
マドリードでレストランに行って美味しい料理を食べることは私たちが最も期待していることの1つだった。
なぜならロンドンに宿泊した際の食事はおそろしく不味かったからだ。
"Restaurante La Corona (address: Jardines 5, Madrid)"での食事が終わったとき、私たち5人は合計で500pta(\650)のチップをウェイターに差し出した。
そのとき、彼は喜色満面の笑みを浮かべ、固い握手を私たちと交わし、ついでにフラメンコ・タブラオ(Tablaos Flamencos)まで案内してくれるまでの喜びようだった。
私たちは一瞬「あげ過ぎた!」と思ったのだが、こういう僥倖でもなければ、おそらくこのときフラメンコを見ることはできなかったであろう。
そうそう、翌日また同じ店で夕食を取ったとき、かのウェイターがセゴビア(Segovia)名物料理、子豚の丸焼き(Cochinillo Asado/Roasted Suckling Pig)を薦めてくれた。
5人で食えば安かっただろうが、このときはいくらするかわからなかったのでしり込みしてしまった。
言葉が通じないって辛いね!英語さえ私たちは話せなかったからね。
初めて見たフラメンコはとてもエキゾチックなリズムとともに繰り出される激しいダンスが印象的だった。
見物が終わり、ホテルへの道を歩いていると、ものすごい量の車が深夜にもかかわらず通りを埋めていた。
昼間は閑散としていた街が嘘のような賑わいだった。
このとき市内の銀行が9時から1時までのわずか4時間しか営業していなかった理由がわかるような気がした。
スペイン人はあまりに宵っ張りなので昼間はあまり働けないのだろうと・・・
私はまだこのとき学生だったが、就職先はスペインがいいと真剣に思った。
マドリード市内観光 (関連サイト 欧州総合リンク, スペイン, マドリード) |
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初めて自分たちでホテル探しをしなければならなくなったとき、私たちは迷わず日本人が経営しているというオスタル<Hostal
Residencia El Arbol del Japón (エル・アルボル・デル・ハポン)>へ向かった。
全く右も左もわからない、言葉も話せない私たちにとって「地球の歩き方」に載っている、しかも日本語が通じるホテルはまさにオアシスだったからだ。
地下鉄のTirso de Morina(ティルソ・デ・モリナ)から近いということも魅力だった。
飛び込み(without a reservation)で行ったにもかかわらず、2室とも確保できたのもラッキーだった。
今でこそ、予約( +34-91-369-3194)が必要と言われるほどであるが、当時はそれほど有名なところではなかったのかもしれない。
いずれにしろ私たちはここで心身ともに救われたのは間違いないだろう。
私たちが丸3日間マドリードに滞在したにもかかわらず、行くことができたのは王宮(Palacio Real)とプラド美術館(Museo del Prado)だけだった。
なぜこうなったのは定かではないが、トレドに行こうとしたら列車の出発(salida)時刻と到着(llegada)時刻を間違えて、友人たちが悠長にトイレへ行ってる間に列車が出発してしまったことは強く覚えている。
その間、駅員が必死の形相で「あと1分で列車が出る!トレド!トレド!」と言っていたのだが、私はただおろおろするばかりで何もすることはできなかった。
次の列車でいけばいいではないか!という人は多いと思う。
でも次の列車まで2時間以上待たなければならないのを知って誰もトレドに行こうという人はいなかった。
昼食を取ればいい?
当時はそんな気持ちの余裕すらなかったね〜
語学力なし、予備知識なし、金なし・・・それが当時の私たちだったのだ。