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パリは日本人にとって憧れの街の1つだ。
おそらくその文化的・芸術的な雰囲気に憧れるのだろうが、一部の買い物マニアにとっても世界的なブランド物を買えるとあって行く人は絶えない。
ベルサイユ宮殿(Château de Versailles)、凱旋門(L'Arc de Triomphe)、ルーブル美術館(Musée du Louvre)、ノートルダム寺院(Cathédrale Notre Dame de Paris)、エッフェル塔(The Eiffel Tower, La Tour Eiffel)などパリには私たちを惹きつける魅力ある観光名所が随所にある。
私たちが行ったのはその一部に過ぎないが、このときは行くことだけでも大変だったという記憶が生々しく残っている。
ベルサイユ宮殿からの帰り道に迷って駅になかなか着けなかったり、ルーブル美術館の帰りに、歩き疲れてへとへとになりながら、らあめん亭(Raamen-Tei)で昼食を取ったりもした。
何でパリでラーメンなのだ!とは言わないで欲しい。このときは昼食すら必死で取っていたのだ。
そして、パリ最後の夜にベール・ギャラン(Vert Galant)というレストランで夕食を取っていると、突然周囲のフランス人がみんなで歌い始め度肝を抜かれた。
誰かの記念日だったのかもしれないが、言葉も習慣もわからない私たちには大変なカルチャーショックだった。
パリで一番驚いたのはワインの値段がミネラルウォーターやジュースのペットボトルと同じくらいで、銘柄によってはジュースより安いものもあるくらいだった。
日本ではワインがジュースと同じ値段で売っていることはあり得ないことだったので、あまりの安さに驚いたのを覚えている。
それに日本では一般的なコンビニエンスストアーや自動販売機というものはなく、おまけに買い物をしていてつり銭がない、と言われることもしばしばだった。
「つり銭がない」と言われることは「売れない」と言われてるのと同義だった。
目の前に商品があり、金もあるのに買えない。
こんなときは何か差別されてるような気分だったね。
パリ観光 (関連サイト 欧州総合リンク, フランス, パリ) |
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ベルサイユ宮殿(Château de Versailles) | |
凱旋門(L'Arc de Triomphe) | |
エッフェル塔(The Eiffel Tower, La Tour Eiffel)と セーヌ川(Seine)の眺め |
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学生だった私たちでも知っていたブランド、それはルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)だ。
そこのシャンゼリゼ店(Louis Vuitton Champs Elysées)は凱旋門(L'Arc de Triomphe)の近くにあり、そこに入ると、まるで日本のデパートのバーゲン会場のような雰囲気で、1つ2,000FF(\52,000)もするようなバッグをいくつも手に抱えた日本人女性がレジに行列を作り、レジでは日本語を話す店員が次々に客を捌いていた。
そういう私も680FF(\17,680)もする財布を買ったが、最近では骨董品のように引き出しにしまってあるだけだ。
まあ、これを持つのに相応しい服装をする機会が減ったとも言えなくもないがね。
ブランドを身に着ける機会が減った奴の代表と言えば、友人の木村だ。
彼は当時、ロンドンで本場のバーバリー(Burberry)のコートを買ったと言って得意顔だった。
彼は約£200(\59,000)したと言っていたが、私にはそれがどの程度の価値を持つものか全くわからなかった。
私は就職してからそのコートを日本のデパートで見たときに初めてロンドンで木村の買ったコートの価値がわかったのだが、皮肉にも、木村の選んだ職業は全くといっていいほどスーツもトレンチコートも必要としないものだったのだ。
そう、外国語が全くできない私たちの買い物のメイン会場だったのが、オ・プランタン・オスマン(Au Printemps Haussmann)内にあった高島屋だ。
場所はオペラ座(Opéra National de Paris)の近く、日系デパート、日系都市銀行や日本料理屋が軒を並べる通称日本人通りと言われるところもその近くだ。
日本語で用が足せる、これは私たちにとって魅力的なものだった。
結局、ここでも家族や友人への土産で2,000FF(\52,000)以上も使った私はやはり金満日本からの旅行者にほかならなかったかもしれない。
私たちは欧州旅行にあたってユーレイルパス(Eurail Pass)を買っていた。
貧乏旅行をしようというわりには1等車に乗れるパスを持っていたが、夜行列車に乗るときは2等に乗るというちょっともったいない使い方をしていた。
マドリードとパリの間には、1等寝台も付いているタルゴ(Paris Madrid Targo)というのが走っていたが、とても畏れ多くて乗れなかったのだ。
もちろん、その列車には2等寝台(4人用ツーリストクラス)もあったのだが、より安くを考えていた私たちはクシェット(簡易寝台車/couchette)の付いたプエルタ・デル・ソル(Puerta
del Sol)号にしたのだった。
そして、生まれて初めて海外の夜行列車に乗り、国境を無事に越えたとき何とも言えない安堵感があった。
なぜなら当時、私たちの乗った列車は真夜中に国境駅のアンダイ(Hendaye)でのパスポート・コントロールがあったからだ。
そう、トーマス・クック(Thomas Cook Timetable)によれば、国境駅で一旦降ろされるかもしれないとあったからね。
マドリードでもパリでも必死にトーマス・クックの時刻表を繰り、筆談で駅員とやりとりした私たちはチケットを駅で買うことすら緊張の一瞬だった。
なぜなら相手が何か質問をしても私たちはどうすることもできないからだ。
パリからフランクフルトへ向かうとき、私たちは2等クシェットで旅をしたのだった。
このときはもう1等寝台に乗るという選択肢はなかった。
残りの10日間を過ごすために目減りし続けるUSドルのTC(Traveler's Check)を節約しなければならなかったからだ。
1985年9月22日のプラザ合意(Plaza Accord)に始まる急激な円高ドル安、このとき私たちはそんな為替のことなど何も考えずにUSドルのTCを作って持ってきていたのだった。( データベース「世界と日本」−田中明彦研究室 University of Toronto. G8 Information Centre)
「就職活動のために日経新聞を読め」と言われていた私たち、しかし、経済の実態のことは誰も知らなかった。
しかも全員が経済学部の人間だったのに・・・
そう、日本の教育の欠点がこんなところにも現れていたのだった。
ちなみに国鉄(SNCF/Société National des Chemins de Fer Français)にはパリという名前の駅はなく、北駅(Nord)、東駅(Est)、リヨン(Lyon)、オーステルリッツ(Austerlitz)、モンパルナス(Montparnasse)、サン・ラザール(St.
Lazare)というように様々な名前がある。
行き先によって発車する駅が違っているので気をつけた方がいいだろう。
長距離列車は乗り遅れたらシャレにならないからね。