女性と子どもの無言の抗議(silent protest)
【2005年7月31日掲載】
世間では、女性が子どもを産まないこと(少子化)と、子どもが働こうとしないこと(ニート/NEET=Not in Employment, Education or Training)が社会的な問題となっている。
ここに決まって登場する言葉が「将来の日本経済にとって」という枕詞だ。
私はこれを見るたびに、日本の支配階級の人たちがこの枕詞を使うのをやめない限り、決してこの問題は解決しないだろうという確信を抱き続ける。
私に言わせれば、女性が子どもを産まないことも、子どもが働こうとしないこともすべては彼らの社会に対する無言の抗議(silent protest)だからだ。

カレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel Van Wolfren)は「怒れ!日本の中流階級」の中で「システム(日本株式会社)の従属品として女性と子どもは位置づけられている」と書いている。

そして彼は言う。
「明らかに日本女性は、結婚を人生の可能性を開く機会というよりも、むしろ束縛と見なしている。日本とアメリカの独身女性を対象としたある比較調査によると、夫をもつことで幸せになれると回答したアメリカ女性は70パーセントに達しているのにたいし、日本女性でそう答えたのは全体のわずか半数だった。日本の独身男性の割合は、いまや世界で最も高い。

その結果、現在日本の全世帯のおよそ四分の一は「独身世帯」である。その背景には、「仕事という戦場にかりだされる」男と生活をともにしたくないという女性の気持ちがある。

これになんの不思議があろう。日本の主婦が本当の意味で夫のパートナーであったためしはほとんどない。伝統的に、女性は家と結婚し、家庭の中に埋没してきた。そしてこの伝統は、今日でも基本的に変わらない。

年老いて寝たきりとなった義父母の世話をし、子供を受験戦争で勝たせるために必要な資金を内職やパートで稼ぐといった苦労も、心の通いあう本当の夫がいてくれれば耐えられるだろう。だが、多くの場合、サラリーマンと結婚した女性は、夫の顔を見る時間さえほとんどない。たまに顔を合わせても、夫は別のことで頭がいっぱいで、妻とろくに会話もしない。
日本のサラリーマンが「会社と結婚」していることは外国でも有名だ。
今の子どもたちはこういった両親の姿を目の当たりにしてきた。
特に1990年代後半以降の企業のリストラの中で、どんなに会社に尽くして(これは隷属とも言う)きたとしてもポイ捨てされる父親を見て、自分もその後を追おうとするだろうか。
1年のほとんどを仕事(会社)のために奉げた父、夫が家庭を顧みないと愚痴をこぼす母、とても幸せそうには見えない様を見て、誰がその真似をしようと思うか。

高度成長期以降数十年もの間、日本の、特にサラリーマンの妻たちは「企業戦士の銃後の守り」という役目を担わされてきた一方で、その子どもたちは「企業戦士」として育てられてきた。
いわゆる、いい学校からいい会社へ、というものだ。
そういった意味で、日本の教育は「子どもたちに知識を詰め込んで」きたが、「知性を育む」にはほど遠いものであった。

今までは、日本株式会社の発展が、「個々の家庭の幸せも」もたらすと信じられて(洗脳されて)いた。
その構図が崩れ去った今、彼女たちは「日本経済のための犠牲」になるのをやめたのだ。
メディアなどは「日本経済のための」という言い方をするが、彼女たちはそれが日本の支配階級たる「白髪の貴族たち」の利益のため、という意味であることに十分すぎるほど気づいている。
従って、彼らが「将来の日本経済にとって」という枕詞を付けるたびに彼女たちの心の中が反発心で一杯になることは想像に難くない。
そんな日本の将来を悲観する人たちは、新天地を求めて海外で就職をしようとし、また自らの子どもに22歳に到達するまでの間、二重国籍を与えるため、身重の体を押してアメリカやカナダでの出産のために国際線に乗る。
私はそれらの行為を責めることは決してない。
もし、私が女だったらそうしていただろうから・・・
一方、これから日本の就業人口の中核となる世代はどうだろうか。
私がNewsweek Japanを定期購読をし始めた1998年8月12日/19日号の特集は「海外で暮らす」というものだった。
その中のフェズで暮らす海外青年協力隊員の斉藤貢氏の言葉は今でも私の心の中にある。(記事
「今の日本人は、経済という名の自転車をこいでいるだけだ。そろそろ自転車を降りて、自分の足で歩けばいいのに。」

海外青年協力隊に派遣されると日本では使い物にならないとか、本人が嫌になって辞めてしまうとか言われる。
私に言わせれば、彼らを受け入れることができない日本の企業の方がはるかにおかしいのだ。
人間としての生活を求めることすらままならない状況を当たり前と思う人々は精神がすでに壊れているとしか思えない。
日本が末期的なのはそういう人たちが多数で、私のような考えが少数だからだ。
事実、私がそういうことを口にするたびに「カルロスは甘えている。お前はおかしい。」と言われる。
カルトの世界でも、その団体の中では教義がおかしいと言えば、お前がおかしいと言われる。
作家の佐高信氏が日本のサラリーマンは「企業教徒」、社宅は「サティアン(Satyam)」と言ったことがあったが、まったくもってその通りだ。

実のところ、私は大学に入学する前からサラリーマンにはなりたくなかった。
今ではそれしか選択肢がなかったという陳腐な理由で、サラリーマンをやっているが、当時人気のあった銀行業界を目指すなど正気の沙汰ではないと思っていた。
私はなぜ毎日夜の10時まで働かされる会社がそんなに人気があるのか不思議で仕方がなかった。
私が企業を選ぶ選考基準は、「人間らしい生活ができそうなところ」だった。
給料などいくら高くても使う時間がなければ何の意味もないことに多くの人が気づかないことが理解できなかった。
今、巷では「日本人は金を貯めるのはうまいが、使い方が下手」とか言われているが私に言わせれば当然のことだ。
そういうトレーニングをする機会を誰も作ろうともしなかったからだ。

私が社会人になった後の、ある同期の言葉が忘れられない。
「カルロス、オレもう金いらないから使う時間が欲しいんだよ。今のままでいったら札束抱いて爺さんみたいに(過労で)死んじゃうよ。オレどうしたらいいんだよ。」
今、彼がどうしているかはわからない。
一つだけ言えるのは、あれから15年以上たった今でもこういう状態なら決して幸せとは言えないだろうということだ。

幸か不幸か、今では多くの情報が様々なネットワークを使って飛び交っている。
「こんな会社に就職すべきではない」というのも私たちの頃は大学の就職課のファイルを丹念にめくるか、信頼できる先輩の口コミしかなかった。
今ではそういう情報がいろいろなルートで入手できるようになった。
それでも正社員になって地獄を見るか、フリーターのままで将来も不安定な生活を送るかのジレンマに悩んでいる人は多いだろう。

下の記事を読んで欲しい。
金子勝(慶大教授)の天下の逆襲(2002.12.20 日刊ゲンダイ
フリーターの若者を責めるのは間違っている。
日本の労働環境はあまりに異常
最近は、定職にも就かず、フリーターになる若者が増えている。
大人たちは困ったものだと嘆いている。フリーターの息子を抱えていることを人に言えない中高年サラリーマンも数多くいるはずだ。
実際、フリーターは200万人を超えている。
みんな「自分の息子がフリーターなのは努力が足らないからでは」と個人の問題にしている。
本当にそうだろうか?

多くのフリーターは、週5日働き8時間労働をしている。
他方、チェーン店の居酒屋やゲームセンターに就職し、店長になった若者の生活は本当に過酷だ。
深夜まで店の営業をし、閉店後に帳簿をつけ、自宅で3〜4時間の仮眠を取ったら、また店に出るというサイクルである。
日本のサービス業の現場を見れば、正規雇用をされた者たちの方が異常な過酷労働を強いられており、フリーターはただ普通に働いているだけなのだ。

なぜ、こんなことになっているのか?
一つは、サービス業がチェーン店化し、労働もマニュアル化して誰でもできる取替え可能なものにされていることだ。
モノ作りの現場も同じだ。
IT化が進んだ結果、コンピューターによる設計が進み、部品がどんどん標準化されている。
そのため、現場における工夫の余地は減っていく。
その結果、働きがいを持ったり、自分の技能を確かめたりする働き場所がなくなっているのだ。

いま一つは、マネー資本主義の暴走による。
マネー資本主義の特徴は、一握りの金持ちがボロ儲けできるシステムである。
例えば、米国のトップ10企業の経営者の年収は、1980年当時は350万ドルだったのに対し、2000年は1億5000万ドルを超えている。
反対に一般労働者の賃金は下がっている。
激しい格差階級を生み出しているのである。

要するに米国流を手本にして日本社会でも、トップダウンで決定する限られた人間と、マニュアル化された低賃金労働をする無数の労働者に分かれてきたのだ。

そして、学歴競争がサービス・マニュアル労働者を振り分けてゆくために、まるで彼らが社会の「脱落者」であるかのような勘違いを生むのだ。
フリーターになった息子や娘をアレコレ言うのはやめた方がいい。
彼らだって、ずっと非正規雇用でいいとは思ってないのだ。
それより、将来を担う多くの若者に対して、同じ社会の一員として正当に扱うように雇用ルールや社会保障制度を整えてやるのことの方が先決ではないのか。
この状況を伝え聞いた若者が困難を打破して正社員になろうと思うか。
フリーターは時給制だから少なくともサービス労働をさせられる可能性は低い。
収入によっては公租公課がかかる可能性はあるが、抜け道も多く、それゆえにフリーターの課税強化などということがニュースになる。
一方の正社員は、サービス労働をさせられる可能性も高く、公租公課はきっちりとかかる。
今のシステムでいけば、実績主義で残業代もつかない会社の場合、実績が上がらずにずるずると勤め続けると、何年たっても初任給が一番手取額が多いという笑えない現象が起こりうる。
要するに短期的には正社員になる意味がない場合の方が多いのだ。

識者はフリーターになる若者に10年後のことを考えろ、と言うが、学校を卒業したての者にそんなことを考えろという方が酷だ。
「結婚して子どもができたら」とも言うが、20歳のときにそんなことを考えて行動した奴が何人いるのだ?
むしろ、そういうことを考えている人は支配階級の思惑にある「将来の日本経済のための犠牲」になることは絶対にしないだろう。
事実、日本でのジョブスキルを一つのステップに、夢は世界へと思っているのだから将来がないものを捨て去るに何のためらいもないのだ。
私に言わせればセカンドチャンスのないことが問題であって、20代のときに老後のことまで考えろという方がおかしいのだ。

今、振り込め詐欺や悪質リフォームなどといったものが話題になることが多いが、あなたは気づいたことがないだろうか。
捕まった奴のほとんどが20代で幹部を称していることだ。
ある週刊誌で振り込め詐欺の舞台裏を取材した記者に彼らは悪びれることなくこう言ったという。

「真っ当に生きろなんて、あんたがたは高収入の定職があるから言えるんだ。俺たちに何がある。真っ当な就職先はせいぜいコンビニの店員だ。それでマジメに働いても世間じゃ陰で俺たちをフリーターとか言ってバカにしている。こっち(悪)の道に走るしかねえんだよ。」と・・・

罪を犯すこと、まして判断力の劣る老人をターゲットにするなど彼らの行為はとうてい許されることではない。
しかし、それが何の抵抗もなく行なわれ、まして万引きなどが犯罪という認識すらされていないのは実は学校における愚劣な校則と無縁とは言えない。

カレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel Van Wolfren)が言う。
校則の愚かしさについては、すでに多方面で指摘されている。
最近はいくらかゆるやかになったようだが、それというのも、すでに校則のくだらなさがピークに達していたからにすぎない。

下着はこの色でなければならない、廊下を歩くときは壁からこれだけ離れ、角を曲がるときはこの角度で−こんな規則が、個人の専厳を傷つけ、それを無にするためだけに設定される。

小さな子供が対象と思えば、いちがいにくだらないとはいえない規則もあるだろうが、えてして当初の目的を超え、愚かしいまでに強化されている。
日本の校長の多くは、新兵の教練を担当する軍曹のつもりででもいるのか。
とても正気とは思えない。

こうした規則のありかたは、世間で思われているよりもはるかに有害である。
無意味な規則というものは、社会にとってつねに危険であり、たとえ相手が子供といえども例外ではない。
意味のある規則までもが軽視されるようになるからだ。

下着の色や下校の道順まで規則で決められ、それにしたがわされる子供たちは、健全な社会を維持するための重要な規則まで軽視するようになるだろう。愚かな規則に慣らされて、国家の法律の役割を充分に理解することができなくなる。無意味な規則のせいで、自分と社会とのあいだにバランスのとれた健全な距離感を築けなくなる。
さらなる問題は、この愚劣な校則を守ったことにより卒業した学生が、就職後の、さらに時代錯誤的で人権侵害の最たる「マル笑 恐怖の社則―こりゃビックリの社訓・社風・社の掟」に代表される規則にすら全く抵抗感を覚えなくなることだ。
逆に外部の、例えば国家が決めた法律をないがしろにするという本末転倒なことが行なわれている。
時折見られる「会社のために(犯罪を)やりました」というサラリーマンのコメントがすべてを象徴している。
なぜ、会社のためにそこまでやるかと言えば、その命令を拒否することが、自分の人生の終わりを意味すると思っているからだ。
先進資本主義諸国では一般的に公法が優先するが、日本では企業の規則や命令が憲法に優先することさえあるのだ。

また、カレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel Van Wolfren)は、日本にセカンドチャンスがないことについてこう述べている。
私のような例は日本ではおそらく考えられないだろう。
故国オランダを離れたとき、私はちょうど大学に入る年齢だった。
だが、私は広い世界を見てみたかった。なけなしの金でそれを実行し、自分一人でさまざまなことを学んだ。
やがてオランダの新聞の特派員となり、本も何冊か書いた。

いまではアムステルダム大学が教授の職を用意してくれたうえ、任期の半分を個人的な研究のために日本その他のアジア諸国で過ごすのを認めてくれている。
私には学位など一つもない。10歳のときに水泳でもらった賞状が、唯一の成績証明書だ。
日本でセカンドチャンスがない理由の一つは、「白髪の貴族たち」が、違う価値観に染まった異分子を受け入れると、自分たちの作り上げたきた領域を侵すのではないかと、恐れているからだ。
彼らにとって必要なのは未だに忠実なロボットであり、感情を持った人間ではないのだ。
終身雇用制崩壊前は、原則として新卒以外の社員を官公庁や大企業が取ろうとせず、彼らを社内教育で一から染め上げたのはその証左である。
今でこそ、中途入社者も多いが、相変わらずその使い方がわからない上司も数多いという。

社員監視時代」という本の著者、小林雅一氏は、今の日本の真の姿を「平和的全体主義国家」と呼んでいる。
彼は戦前の「好戦的全体主義国家」の姿と今で本質的に変わったものはないと論じる。
会社でも私生活でも他人の視線を真っ先に考え、帰属集団の暗黙のルールを侵さぬように息を詰めるようにして生きている。ちょっとでも肌合いや考えの違う人間は集団から排除する。論理と正義よりも、心情と馴れ合いを優先する。自分の頭で明晰に考え、人と違ったことを堂々と発言できるような勇気と精神構造が発達していない、と言う。
これは21世紀になっても全く変わらないどころか、イラクでの日本人人質事件のときからいっそう言論の全体主義化が鮮明になってきたように思う。

そういった社会の空気を見透かした女性と子供たちの起こした静かなる反乱、いわゆる無言の抗議が「出産スト」と「就労スト」とも言えるのだ。
彼らは、もう自分たちの父母の世代のように「白髪の貴族たち」の生贄になるのは御免だと考えているに違いない。
人間を幸福にしない日本というシステム」というのは、言い得て妙である。
今の日本の社会問題のほとんどはここに根源があるのだ。
日本の支配階級の人間がそれを認識しない限り、堕ちるところまで堕ちるだろう。
男性の労働時間、長い地域ほど出生率は低く・・・厚労白書
(2005.7.29 読売新聞)
男性の労働時間が長い地域ほど出生率は低くなる。
政府が29日発表した厚生労働白書で、こうした傾向が明らかになった。
厚労省は、25〜39歳の男性で週60時間以上働いている人の割合(2002年)と合計特殊出生率(2004年)の関係を都道府県別に初めて分析した。

男性の週間労働時間と出生率の関係週に60時間以上働く男性の割合が全国で最も低い14.2%の島根県の出生率は、全国平均を上回る1.48だった。
逆に、60時間以上働く男性の割合が26.4%で全国最高の大阪府の出生率は、全国平均を下回る1.20だった。全国平均はそれぞれ22.4%、1.29。

白書は、男性で長時間働く人の割合が高い地域は出生率が低い傾向があるとして、「男性も家庭でしっかりと子どもに向き合う時間が持てるよう、働き方を見直していくことが求められる」と指摘した。

このほか、3世代同居の世帯の割合が高く、働く女性の多い地域ほど出生率は高かった。
逆に、男性の通勤時間が長く、延長保育の実施割合が低い地域は、出生率が低かった。

出生率に地域差を与えるこうした要因について、白書は「政策的な努力で縮めていくことが可能だ」として、国と地方自治体が一体となった子育て支援策の充実を訴えている。

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