ナザレにもあった闘牛場

7/6(Sat) オビドス 11:30-(Bus/Rodoviária do Tejo)-13:30 ナザレ
ナザレ観光
宿泊先 Maré / 8,000esc (\6,000) per night
[booking sites for you / agoda.jp Booking.com Hotel Club (英語・日本語) アップルワールド JHCホテル (日本語)]
諸費用 バス / オビドス-ナザレ: 440esc=\330
ナザレのケーブルカー: 40esc=\30
関連サイト 欧州総合リンク ポルトガル コスタ・デ・プラタ

丘の上でひっそりと息づくオビドスの町の、おそらく唯一のショッピング・ストリートの"Rua Direita"で、今回の旅行でもバックパックを貸してくれた人や、私の仕事をおそらく手伝ってくれているであろう職場の仲間たちへのお土産を買っておく。
私としては、できれば9時55分発の一番のバスで発ちたかったのであるが、中世フリークのわが友人が名残惜しいらしく、二番のバスにしたいというので、若干遅れて出発することになった。
正直言って、私はこんな刺激のない町は、さっさとお別れをしたかったのだが、彼との感性の違いがここに到って如実に現れてきたようだ。
これがあまりに長く続くと困るのだが、たった2時間の違いは海外旅行においてはたいした違いではない。

オビドスから乗ったナザレ行きのバスは、カルダス・ダ・ライニャ(Caldas da Rainha)付近で若干の渋滞に巻き込まれた。
こんなことなら列車にすれば!というのがEU圏での旅行の常識であるし、事実、列車の方が早い国が多いのだが、ここでは、この常識は当てはまりそうもないだろう。
一応、地勢学上は、オビドスからナザレまで列車で行くことも可能なのだが、町から駅までが地図にも掲載されていないほど遠いのであれば、敬遠した方がベターというものである。
もちろん、列車の方が日本の新幹線並みの頻度で走っていれば、考えるが、そんなことは南欧圏ではまずありえない。

ナザレというところは、西欧圏では珍しくホテルの客引きがいるのだ。
私たちの乗っていたバスにも、前方の座席に陣取っていたオバサンの一団がいたのだが、どうやら彼女たちもそうであったようで、終着近くなって、"Nazaré!" "Nazaré!" と叫んで、「降りろ」という仕種で手招きしたので、ついていったら、実はホテルの客引きだったらしいのだ。
もちろん、ナザレに到着したのは間違いないようで、それに、彼女たちは "No, thank you." と言って手を振れば、それ以上にしつこく寄ってこないし、まして波状攻撃を食うこともない。
全体的な感じとしては、日本の歓楽街の客引き程度といったところか・・・
これが、地中海を挟んだ南のモロッコなら、こんなのは序の口で、自称ガイドや物売りが湧いてくるように寄ってきて、つきまとわれることは必死!
良かったね!ここがポルトガルで・・・

ナザレのホテルは、観光案内所 で紹介してもらった "Hotel Maré"、この値段で上から数えた方が早いというランクのホテルに泊まれるのだから、多少円安になったとはいえ、たいした威力である。
もちろん、ビーチやレストラン街にも至近で、その割りには町の喧騒から離れたところに位置しているため夜は静かと、ホテルの立地条件としては、3拍子そろったベスト・ポジションと言えよう。
欲を言えば、冷蔵庫があれば、要するにビールやワインを買い置きして冷やしておけるのだが、1泊8,000エスクード(\6,000)でそこまで望むのは酷なのだろうか?

Nazare Nazare
シティオ地区からの眺め
Igreja de Nossa Senhora da Nazare Bullring in Nazare
ノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会 闘牛場

ナザレの町の観光は、プライア(Praia)地区の北にあるケーブルカー(40$=\30)に乗って行ったところにあるシティオ(Sítio)地区がメインとなる。
その中でも中心となるのが、ノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会(Igreja Nossa Seinhora da Nazaré)だ。
またしても教会って感じだが、今日は教会の中で信者がお祈りをしていたので、私たちも十字を切って真似ごとをしてみた。
ポルトガル人の場合は、当然ながら、こうしたことは日常の行為となっているのだが、私たちの場合は真似なので、何となく動きがぎこちない。
でも、いくら何でも聞くわけにもいかないだろう!「十字の切り方はこれでいいですか?」なんて・・・

とりあえず、教会はこの程度にして、町をさらにぶらぶらしていると、闘牛場(Praça de Touros) なんてものもある。
闘牛と言えば、スペインが超本場なのだが、意外や意外にもポルトガルでもやっているのだ。
ちなみに、私たちの滞在中に観戦できるかどうか観光案内所に確認したのだが、残念ながら16日まで開催はないらしい。
リスボンなら毎週木曜開催なので次回は11日ということなのだが、これも出国後でアウトということか!

あとは、何をするかと言えば、プライア(Praia)地区でのグルメにショッピングであろう。
特に、シーフードが美味なポルトガルにおいて、元来は漁村のナザレに滞在したからには格別に美味しい料理が賞味できるに違いない。
それに、そろそろ「土産」を買い揃えておかないと、という時期でもある。
それと、私の場合に忘れてはならないのが、来るアムステルダムでの防寒(!?)対策。
でも、ちょうどいいのが売ってたんだ!
当地伝統の"フィッシャーマン・シャツ(rough-textured fisher's sweaters)"、これで完璧だよ・・・

奇跡の水を飲むと何が起こるか?

7/7(Sun) ファティマへの小旅行(Mass in the Basilica 16:30~)
ナザレ 12:00-(Bus/Rodoviária do Tejo)-14:00 ファティマ
ファティマ 18:26-(Bus/Rodoviária do Tejo)-20:26 ナザレ
宿泊先 Maré / 8,000esc (\6,000) per night
[booking sites for you / agoda.jp Booking.com Hotel Club (英語・日本語) アップルワールド JHCホテル (日本語)]
諸費用 バス / ナザレ-ファティマ: 565esc=\420
関連サイト 欧州総合リンク ポルトガル コスタ・デ・プラタ

今日、私たちが訪れようとしているのは、「ファティマ(Fátima)の奇跡」で有名なロザリオの聖母マリアの聖地である。
言うなれば、私たちは今日は「1日クリスチャン」になって、俗世を離れて、心を清めよう(ということにしておこう!)というのである。
もちろん、ヨーロッパ旅行に来れば、わが友人は突然変異のように「クリスチャン」になるので、問題はないのだが、私は女優が「1日警察署長」をやるように「1日クリスチャン」を務めようと思う。

ちなみに、以下のものが観光案内所でもらった英文のリーフレットの日本語訳に記載されている「ファティマ(Fátima)の奇跡」の内容なのだが、私に言わせればノストラダムス(Nostradamus)の方が凄いのではないかと思ったりもする。
何と言っても、彼は16世紀の時点で、その著書「諸世紀」で「1999年7月、すなわち今から3年後に”恐怖の大王”が空から降ってくる。」と予言しているのだから・・・
これだと、何だかわからないが、要するに私たちに途方もない災厄が降りかかるらしい。
従って、そうならないうちに私は海外旅行を楽しんでいる(!?)のだが・・・
やはり、これは聖母マリア様と俗世の医師との格の違いか?と言ったら、ローマ法皇に怒られるかな?

つまり、この聖母マリア伝説(!?)に因んで、毎年5月13日と10月13日をピークとして、毎日のように巡礼団がお祈りを捧げており、私たちも、この「奇跡伝説」にあやかろうと、にわかクリスチャンになって聖地へ赴こうというわけである。
ある時は仏教徒、ある時はキリスト教徒、ある時は〇〇教徒と節操のかけらもない無信教の民であることを批判されることもある日本人であるが、どこの宗教的名所でも入っていくのに何の抵抗もなく行けるのが長所と言えなくもない。
これで、東南アジアのようにイスラム教のモスクや仏教寺院が近くにあったりすると、カメレオンのような変わり身の速さで、違う祈りを捧げているのだろうな。
要するに、これは何の神が奉られているかわからないのに、初詣に行っているメンタリティと同じなんだろうな!

正午ちょうどにナザレのバスターミナルを出発したバスは、鉄道(CP=Caminho de Ferro Portuguesa)との接続地であるバラド・ド・フラデス(Valado dos Frades)、初代ポルトガル王であるアフォンソ・エンリケス(Afonso Henriques)により建てられたサンタ・マリア修道院(Mosteiro de Santa Maria)のあるアルコバサ(Alcobaça)、サンタ・マリア・ダ・ビトリア(勝利)修道院(Mosteiro de Santa Maria da Vitória)のあるバターリャ(Batalha)を経由して、ファティマ(Fátima)のコヴァ・ダ・イリア(Cova da Iria)に到着した。
まさに教会街道と呼ばれそうな地域を経由して行くバスの旅と言えよう。

ファティマ観光
Mass in the Basilica (Fatima) Eucharistic Procession (Fatima)
大聖堂でのミサ 聖体拝受の行進
Nazare Nazare
「奇跡の水」を汲んで帰る筆者 大聖堂

聖地ファティマ(Fátima)でのシンボルは、言うまでもなく1928年に建立された大寺院(Basilica)であり、ここを目指して何万人という巡礼者が訪れる。
私たちが来たときにも、すでに熱心なクリスチャンが跪いて祈りを捧げているのが見えたし、神父が説教をしているところでは、群衆となって聞き入っているのも見えた。
また、蝋燭を灯して祈りを捧げているところもあったので、私たちもなけなしの浄財を供し、一緒になって祈りを捧げることにした。
こうしていると、無意識に手を合わせたり、柏手を打ったりしそうなので、注意が必要だ。
にわかクリスチャンなのだから、十字を切らなければ・・・
でもどっちから切るんだっけ?

カトリックの聖地に相応しいものと言えば聖水なのだが、ここではsisterから授かるものより有名な湧き水があって、どうやらそれをペットボトルなどに汲んで飲むと「奇跡伝説」にあやかれるらしいのだ。
私たち以外にも湧き水を汲んだり、直接手ですくって飲んでいる人もいて、これはデマでもなさそうだが、どういう「奇跡」にあやかれるか、までは「ご教示」がないのでわからない。
以前TVでやっていたところだと、やはり不治に近い病気が治癒したとの「奇跡」が多いようだが、これにあやかろうとするカトリック教徒が大挙して押し掛けているらしい。
わが友人はペットボトルに汲んだ水をわざわざ日本に持ち帰るらしいので、どんな願掛けをするのかと思うのだが、どうやら風呂の水にして「奇跡風呂」にするらしい。
聖水で尻などを洗ったら、普通は神を冒涜する行為じゃないか?とも思うが彼は聖水で身体を清めるからいいと言って譲らない。
それなら私の「ご教示」通りに「奇跡ラーメン」でも作った方がマシなのでは、と言うと、さすがに日本まで持って帰って料理に使う気にはならないらしい。

今日のハイライトは、盛大かつ荘厳に執り行われるミサ(Mass in the Basilica)である。
観光案内所でもらったリーフレット(leaflet)によれば、16時30分からミサが、それが終わった後の17時30分から聖なる行進(Eucharistic Procession : on Sundays from Easter to October)が行われるというらしいので、「1日クリスチャン」としては是が非でも参加したいところである。

ミサの行われる聖堂には、日曜ということもあるだろうが、16時30分の開始時刻を待たずして信者たちが集まり始め、たちまちのうちに椅子席は満席となり、最後尾に立ってその様子をカメラに収めていた私の前にも続々と人が詰め掛けて来たために、ようやく神父が登場したころには、私は人垣に囲まれてしまった。
もちろん、にわかクリスチャンのわが友人がこの中にいないわけはないのだが、とても捜し出せるような状況でなく、「体験ミサ」が終了するのを待つほかはなさそうだ。

神父の言葉は当然のことながらポルトガル語なので、私にとっては全くわからない未知の世界で、椅子席の人が時折立ち上がってお祈りの言葉らしいことを言っているときが節目だろうぐらいしかわからない。
ただ、浄土宗などにおける念仏も、日本語でありながら何を言っているのかわからないことが多いが・・・
従って、最初は興味もあってミサにいることが苦痛ではなかったのが、次第に時間がたつにつれて、疎遠になっている親戚の葬式に参列したような気分になってくる。
要は、足が痺れてきて、いつ終わるのだろうということだけが気掛かりになるというやつだ。

ミサが終了すると本当の(!?)のクリスチャン同士はキスを交わし、シスターが差し出す聖水に浸したパンを口を突き出して授かるようである。
わが友人は隣が小学生ぐらいの女の子だったので儀式のキスをしてもらったようだが、私の場合はいかつい大男だったので、握手を交わしてミサを終えた。
もちろん、シスターが差し出す聖水に浸したパンも授かろうと思えば、できなくはなかったが、そこまで信者の真似事をする気にもなれなかった。
また、前方の椅子席に座って、お祈りの真似事はしていた彼でさえ、さすがにパンまではもらわなかったようである。

17時30分から聖なる行進(Eucharistic Procession)は、大きな十字架を持った神父を先頭にして、境内を行進するもので、当然のことながら熱心な信者なら、その行列の後について今日という日を「感動の日」にでもするのだろうが、私はもちろん、わが友人でさえ、すでに化の皮がはがれたように、日本人観光客たる本領(!?)を発揮して写真撮影に余念がないようだ。

これが終われば、とりあえず全日程終了ということで、18時26分発のナザレ行き最終バスに乗る。
日本と違ってまだ夕方にもなってないのに最終バスとは、早すぎるような気がしないでもないが、1日3便しかないのだから、朝昼夜で1便ずつといったところなのだろう。
とりあえず直行なのだから往路と同じに黙っていても目的地までは行けるはずなのだが、それがおかしくなったのは、バターリャ(Batalha)を過ぎて、名も知らぬ町で、乗客が全員下ろされて、私たちの乗っていたバスがどこへとも知れずに行ってしまったときだ。

周りのポルトガル人について行くと、みんなは心得たようにニコニコ談笑しているので、大丈夫なのだろうが、こういうところは言葉が通じない歯痒さを感じずにはいられない。
また、私たちと同じ運命にあるらしい真っ黒な顔をした独り旅らしい東洋系の男がいるのだが、日焼けしているにしては日本人離れしているので何となく声をかけづらい。

しかし、外国人だったら英語に切り換えればいい、ぐらいの気持ちで声をかけると、やはり日本人のようで、話を聞いてみると中東で働いているらしく、ここへは1か月の休暇で来ているとのことだ。
どうりで異常に日焼けしていると思ったが、それにしても羨ましい休暇の長さである。
そこで、彼にジェスチャー混じりのポルトガル語で彼女たちに聞いてもらったところ「もうすぐ乗り継ぎのバスが来るらしい。」ということらしいが、彼曰くポルトガル語はほとんどアドリブらしい。
でも私たちはアドリブでそんなことはできませんね!
せいぜい言えるのは"Obrigado(オブリガード)"ぐらい?


ロザリオの聖母のご出現
英文のリーフレット(leaflet)の内容はこちら
1917年5月13日、3人の子供たち-Lucia de Jesus(ルシア・デ・ジェズーシュ)10歳、彼女のいとこのFrancisco(フランシスコ)9歳、Jacinta(ジャシンタ)7歳は、今日のLeiria司教区のVila Nava de Ourén(ヴィラ・ノヴァ・デ・オーレン)郡、Fátima小教区のCova da Iria(コヴァ・ダ・イリア)で羊の番をしていました。
正午頃、いつものようにロザリオの祈りを終え、近くにころがっている小石で小さな家を作って遊んでいるときでした。
突然稲妻とも思える激しい光が現れました。

子供たちは驚きのあまり逃げようとしたのですが、もう一つの閃光が現れ、あたりを照らしたので立ち止まりました。
そして小さな柊の木の上に(今日、ご出現の小聖堂のある地)「太陽の光よりもまばゆいばかりの貴婦人」がロザリオを手に立っておられるのを見たのです。

貴婦人は、三人の小さな羊飼いたちにもっと祈るようにお勧めになり、これから先の5ヶ月の間、各月の同日時にCova da Iriaに来て欲しいとお願いになられました。
子供たちは約束どおり6・7・9・10月の13日にCova da Iriaに行き、ご出現を待ち、貴婦人のお話を聞き、また話もしました。
  8月のご出現は、約束の日にVila Nova de Ourénの郡長が3人をCova da Iriaへ行かせまいとして拘引したため、6日後の19日に、子供たちの整地であるAljustrel(アルジェストレル)よりも500メートルほど離れたValinhos(ヴァリニョシュ)にてご出現がありました。
 最後のご出現日(10月13日)には、およそ7万人もの人々が集まりました。
そこで貴婦人は「私はロザリオの元后です。私の栄誉のために聖堂を建てて欲しいのです。」とおっしゃいました。
 そして、7月と9月のご出現の際、子供たちに約束なさったように「奇跡」を大群衆を前にお見せくださったのです。
-太陽は銀色の円盤のようになり、そして火の輪のようになって回転したり静止したり、そうして地上に飛び込んでくるかのような「太陽の舞」を-

後年、Saint Dorothy(セント・ドロシー)会の修道女となったLuciaに聖母はお現われになりました。
(1925年12月10日、1926年2月15日にPontevedraの修道院にて、1929年6月13日、14日の両夜はTuyの修道院にて)
そして、5回の初土曜日の贖罪的聖体拝領とロシアを聖母の汚れなき御心に奉献することを願われました。
この願いは1917年7月13日のご出現のときにお伝えになられた、いわゆる「ファティマの秘密」と呼ばれています。

数年後、シスタールシアが明らかにされたところでは、1917年5月13日の聖母のご出現以前、1916年4月から10月の間に3回、天使が現れ、(2回はLoca do Cabeço、そしてあと1回はルシアの家の井戸のそば)子供たちに次のように言いました。
-主に祈り、もっと犠牲を捧げるように-

1917年以来、Cova da Iriaには巡礼の人の波が絶えたことはなく、最初のうちは各月の13日だったものが、後には夏と冬の休暇期間中でも、今日では1年を通して、特に週末には多く、何万人もの人がロザリオの聖母の聖地で祈るため、世界各地から訪れています。
ファティマの聖母-第3の予言に関するニュースリリースへ続く

大西洋の水の冷たさはハンパじゃねえぜ!

7/8(Mon) ナザレで海水浴
宿泊先 Maré / 8,000esc (\6,000) per night
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関連サイト 欧州総合リンク ポルトガル コスタ・デ・プラタ

今日は、ポルトガルのビーチ・リゾートを楽しむということになっている。
ただ、この国での有名なビーチ・リゾートは地中海沿岸のアルガルヴェ(Algarve)地方だが、隣のスペインのようにたくさんの有名ビーチリゾートが点在しているというわけではない。
ましてナザレのビーチに関しては英語の観光情報もあまりないくらいだから押して知るべしといったところだろう。
しかしながら、燦々と輝く夏の太陽と、ホテルから至近の場所にビーチがあり、しかも大西洋で泳ぐなんて一生ないような気もするので、予定通りに今日はナザレのビーチに繰り出すことになった。
まあ、一生に一度の体験かもしれないからね。

ところで、欧米スタイルのビーチ・グッズと日本ののビーチ・グッズとの違いは、基本的に前者が「静」であるのに対し、後者が「動」であると言えよう。
前者の場合は、1リットルのミネラル・ウォーターのペットボトルにペーパー・ブックを持ち、敷物はバスタオルかゴザというのが一般的に多いようで、海の中へは火照った身体を冷やすために入るぐらいでビーチ・ボールや浮き輪などで遊んでいる人は、どちらかというと少数派だ。
ただ、地中海沿岸だとピチピチギャルがトップレスになっていることも多く、目の保養になるのが良い点であるのだが、西欧人の場合は、ビヤ樽のようになったオバサンまでがトップレスになるので閉口することも多いのが難点である。
そこは、当の欧米人の男性諸氏でもわかっているのだろうが、市長が公に発言したりすると1993年7月のイタリアのリヴィエラ(Riviera)海岸諸都市のように「ビキニ騒動」になってしまうので大変である。

後者の場合は、「海の家」でビールを買い、ナイロン製のレジャー・シートを敷いて日光浴、というのが一般的だが、海の中でもビーチ・ボールや浮き輪などで遊んでいる人が結構いるようだ。
しかし、欧米系につきものの読書や書物をしている光景はほとんど見られない。
もちろん、海外旅行先でも「動」の姿勢は基本的に変わらないから、私の今まで行った旅先でもグアム島やインドネシアのバリ島などの日本人観光客の進出が著しいところでは、マリンスポーツなどのアクティビティ・メニュー(activity menu)も多く、飽きがこないように配慮(!?)されているようだ。

Nazare Nazare

前置きが多くなってしまったようだが、私は現地調達したゴザに1リットルのミネラル・ウォーターのペットボトル、そして缶ビールに文庫本、たいして読めもしないのに衝動買いした"Daily Star"という英字新聞という具合である。
わが友人の場合は、文庫本と新聞がウォークマンに変わるだけで、それ以外は基本的に同じだ。
まあ、ここで、マリンスポーツをやろうと思ったら、本物の漁に行くしかないというのが現実だからね。

ところで、ナザレの場合、ビーチの光景がほかのところと一風変わっているのがわかる。
それは、パラソルの変わりがビーチに整然と並んだ四角いテントになっているということだ。
要するに出入口を除けば、すべて布で覆われていて、厳しい日差しから守られるわけだが、少々大袈裟なのではないか?という感じでもあるのだが、その理由は、強烈な海からの突風を防ぐことにあるようだ。
しばらく日光浴をしながら新聞でも読んでいると、それはすぐにでも実感できるのだが、ひどい時は砂嵐の中にでもいるような感じで、長く続くようだと、テントの中か海に退散することになるのだ。

しかし、ナザレの場合、肌が火照ったからといって、海の中へ入って行くというより、肌を冷やし過ぎたから日光浴でもするか!というぐらいに水は冷たいのだ。
この冷たさは半端でなく、燦々と降り注ぐ夏の太陽と対照的に、日本の川の水など比較にならないくらいに冷たい。
はっきり言って、日本人がナザレの海で泳ぐには、寒中水泳をやるぐらいの気構えが必要で、北欧やロシアから来た人間でなければ、とても水泳は無理だろう。
従って、私たちは海に行くことを「急速冷凍しに行く。」と呼んでいたのだが、やはり子供は元気みたいでこれだけ冷たい海をものともせずに遊んでいるのが印象的だった。
一方、European beach resortにつきもののピチピチギャルのトップレスといったご機嫌な光景はナザレには無縁で、海水浴も目の保養もできないとなれば、大ハズレと言わざるを得ないだろう。

こうなると、ポルトガル滞在の後半3日を地中海沿岸のアルガルヴェ(Algarve)地方で過ごし、スペインのセビリヤ(Sevilla)経由でアムステルダム帰還というプランを遂行しなかったことが悔やまれる。
いずれにしろ、現実にはポルトガル滞在は残り1日ということで、明日はナザレを発つのを午前中にするか夕方にするかという懸案があったのだが、これでどうやら決定したようだ。
明日は午前中にリスボン入りして・・・
おそらく午後はバラバラで行動することになるだろう。

何をしに行ってるのだ!という声がしそうな・・・ハハハ

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