少子化も人口減も止まらない理由

【2006年1月9日掲載】

  1. 効率優先社会が少子化を加速させる
  2. ジョージ・オーウェルの「1984年」の世界
  3. 日本の企業社会が抱える裏側の真実
  4. 作られた専業主婦の職業的無能
  5. 教育の機会不平等の現実
  6. 移民は人口減社会の切り札か

少子化対策というものはもう言い古された政策である。
「対策(政策)」とは言うが、実際には何もやってないに等しい状態が10数年来ずっと続いている。
なぜかと言えば、日本の中枢を司る支配階級(政官財=永田町・霞ヶ関・丸の内)の男たちは、本気で「少子化対策」を実行する気などさらさらないように思えるからだ。
しかし、ついにというか、当然来るべきときが来たというか、耐震偽装問題の陰に隠れて、少子化が政府の予想を超えて進行している実態を政府自らが認めることになった。

来年にも人口減少、予想より1年早く…少子化白書
(2005.12.16 読売新聞
政府は16日の閣議で、少子化の現状と対策をまとめた「少子化社会白書」を決定した。
日本の人口減少が、従来の予測より1年早い2006年から始まる可能性があるとしている。
国立社会保障・人口問題研究所が2002年に発表した人口推計では、2007年から人口が減少するとしており、政府が2006年からの人口減少に公式に言及したのは初めて。

白書では、〈1〉女性が生涯に産む子供の数を表す「合計特殊出生率」が2004年に過去最低の1.29となった〈2〉「人口動態統計速報」の2005年上半期(1-6月)速報値は、死亡数が出生数を上回り、速報値ながら1968年の調査開始以来初めて、人口減少になった―ことなどを根拠に、2006年に人口減少が始まる可能性があるとしている。

このため、「『人口減少社会』が予想を上回る速さで迫ってきている」とし、日本が欧米と比較しても「超少子化国」となったと警鐘を鳴らしている。

その上で、子育て支援策の拡充が必要とし、地方自治体や企業の役割が重要だとしている。

内閣府では、急速に少子化が進む背景を、「フリーターやニート(就業、就学、職業訓練のいずれもしていない人)の増加で、経済的に不安定で結婚ができない若者が増えたことや、結婚しても教育費の負担増を考え、子供を産まないケースが増えたことも影響しているのではないか」と分析している。

また、白書では、国や家庭を含めた社会全体が子育てにかける費用を推計している。2002年度1年間に18歳未満の子育てにかかった費用は、子ども1人あたり173万円で、全体で38兆5000億円。このうち国や地方自治体の公費負担額は20兆円で、対国内総生産(GDP)比は約4%だった。
出生率低迷 産みたいと思う社会を
(2005.6.5 朝日新聞)
赤ちゃんがまた減った。
1人の女性が生涯に産む子どもの数を推計した合計特殊出生率は2004年も1.29と前年と同じ数字だったが、生まれた子どもの数は過去最低になった。少子化に歯止めはかかっていない。
子どもが減り続けると、年金や医療など世代間の助け合いで運営されている社会保障が揺らぐ。働き手が減って、社会そのものにも大きな影響を及ぼす。

深刻なのは、いまの少子化がそうした経済的な問題にとどまらないことだ。
これほど出生率が低迷しているのは、子どもを産みたくても産めない社会になっているからだろう。子どもを産むかどうかは一人ひとりの選択だが、安心して子育てができないようでは、とても健全な社会とは言えない。

多くの人が子どもを産んで育てたいと思う社会をめざすにはどうすべきか。少子化は重い問題を突きつけている。

政府の少子化対策は15年前に始まっている。1989年の出生率が、「丙午(ひのえうま)」の迷信から出産を控える人が多かった1966年の実績さえ下回った「1.57」ショックがきっかけだ。さまざまな計画が立てられ、メニューは出そろった。しかし、効果はほとんどあがっていない。

その大きな原因は、政府が本気で取り組んでこなかったことにある。社会保障の予算は、年金や老人医療など高齢者に70%が振り向けられ、児童手当や育児サービスなど子ども向けには4%しかない。その数字を見ても、少子化対策は掛け声倒れだったことがわかる。

働きながら子育てできるように、保育所を増やすことなどはすぐに手をつけるべきだ。また私たちは、児童手当を思い切って増額し、10年程度をかけてその効果を見ることも提案している。
同時に、若者の雇用に目を向ける必要がある。アルバイトやパートで暮らす若者のフリーターはこの10年で2倍となり、200万人を超す。こうした動きは少子化の深まりと比例している。

将来の見通しが立たなければ、結婚や出産になかなか踏み切れない。全国的に少子化が進むなかで、例外的に出生率が上向いている自治体では、若者が安定して働ける職場が多い。
時間はあるが安定した収入がないフリーターが増える。一方の正社員は収入は多いが、残業で自由な時間がない。若者の仕事は二極化が進んでいる。

そう分析する慶応大学の樋口美雄教授は「いずれも少子化を促進している。両方を足して二で割り、適度に稼いで、適度に休みがとれる社会にしないといけない」という。
みんなで仕事を分かち合うワークシェアリングを進める。正社員とパート労働者の賃金格差を縮める。そうした工夫が、いまこそ社会に求められている。
日本の人口は2006年にピークを迎え、その後は減っていく。それはやむをえまいが、もう少し若い人たちが赤ちゃんを欲しいと思える社会をつくりたい。

なぜ、毎年のように「少子化対策」が叫ばれているのに実行できないのか?
日本経済新聞社が出している「女たちが日本を変えていく」の中にもあるように、「働く母(working mother)」を支える政策が少子化対策として有効なものの一つとしてあげられている。
しかし、それは今まで企業中心主義の根幹をなしてきたポリシー、そして、それらを忠実に実行することが仕事中毒、会社人間と揶揄されながらも高度成長時代、そして経済大国に至るまでを担ってきたというサラリーマンの歴史を覆すようなコペルニクス的な発想の転換を必要としたからだ。

日本の中央官庁や民間企業のサラリーマンは、かつて景気が良かったときでさえ有給休暇を取るのに、上司や同僚に気兼ねしてなかなか取れないと言われた。
単に有給休暇の問題かという人もいるだろうが、それが気兼ねして取れないということは、「子供の健康を理由に休暇を取るリスクがある母親」を雇う、あるいは彼女たちを仕事のローテーションに組み込むことが困難であるということを意味する。
日本の市役所や旧西欧の会社で既婚女性が働きやすいと言われるのは、有給休暇の取りやすさと決して無縁ではないのだ。

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効率優先社会が少子化を加速させる

Newsweek Japan 2003年6月11日号表紙2003年6月11日号のNewsweek Japanは、世界史上でも稀であった日本の中流社会の崩壊がもはや決定的になったという記事(PDF)を載せていた。
戦後の経済成長を支えた「1億総中流時代」の終焉と、国民の大多数が貧困層への転落の恐怖にさらされる「1極化した階級社会」の出現であると・・・

そして、2005年9月に出版された三浦展氏の「下流社会」では、もはや格差社会が後戻りができないほど広がっており、かつては多くの人が共有できた上昇への希望が、今や一部の少数の人しか持ち得ないものであると、そしてその格差は個人の資質や能力でなく、親の階層によってほぼ決まる傾向があると論じている。
また、「派遣社員・フリーターの結婚、子育ては不利」として、理由として最大のものはいくら働き続けても所得の上昇がほとんど期待できないことをあげている。
つまり、非正規雇用の数が増加の一途をたどっているのに、彼らが将来に希望を持てないことが少子化の一因と断じているのだ。

下流の定義(by 三浦展)
下流(lower class)は三浦氏の造語である。
基本的には従来の階層意識では「中の下」であたり、食うや食わずとは無縁の生活をしている。しかし、「中流」と比べると何かが足らない。それは意欲である。単に所得が低いということではなく、コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。
その結果として所得は上がらず、未婚のままでいる確率も高い。そして、彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ。

■あなたの下流度チェック
  1. 年収が年齢の10倍未満だ。
  2. その日その日を気楽に生きたいと思う。
  3. 自分らしく生きたいのがよいと思う。
  4. 好きなことだけして生きたい。
  5. 面倒くさがり、だらしない、出不精。
  6. 一人でいるのが好きだ。
  7. 地味で目立たない性格だ。
  8. ファッションは自分流である。
  9. 食べることが面倒くさいと思うことがある。
  10. お菓子やファーストフードをよく食べる。
  11. 一日中家でテレビゲームやインターネットをして過ごすことがよくある。
  12. 未婚である。(男性33歳以上、女性30歳以上)
これに半分以上該当すると、かなり「下流的」である。

それもそのはず、慶応大学の金子勝教授によると、上流と下流の二極分化は日本のグローバリゼーション(国際化政策)が本格化した20世紀末からすでに始まっていて、日経連(現経団連)は1995年に「新時代の日本的経営」というリポートを発表したが、その中で今後の雇用形態を3つに分類している。
将来の幹部侯補生である正規雇用である正社員、高度な特殊技能を持つ有期契約社員、マニュアル通りに働くだけの派遣社員やアルパイト、というものだ。その上で効率最優先の能力主義を徹底すべしと提唱している、と書いている。

日経連「新時代の『日本的経営』」(1995年5月)
カテゴリー 「長期蓄積能力活用型」 「高度専門能力活用型」 「雇用柔軟型」
雇用形態 期間の定めのない雇用契約 有期雇用契約 有期雇用契約
対象 管理職・総合職・
技能部門の基幹職
専門部門
(企画、営業、研究開発等)
一般職
技能部門
販売部門
賃金 月給制か年俸制
職能給
昇給制度
年俸制
業績給
昇給無し
時間給制
職務給
昇給無し
賞与 定率+業績スライド 成果配分 定率
退職金・年金 ポイント制 なし なし
昇進・昇格 役職昇進
職能資格昇進
業績評価 上位職務への転換
福祉施策 生涯総合施策 生活援護施策 生活援護施策

ここで質問だ。
この「新時代の日本的経営」というリポートの概略から、日経連(現経団連)傘下の企業に少子化対策として有効とされている「働く母(working mother)」に配慮した雇用政策を打ち出すことが期待できるだろうか?
答えは当然NOだ。
事実、私が以前勤めていた会社では、リストラは「働く母(working mother)」の猛烈な首切りから始まった。
多かれ少なかれほかの企業でも同じだったというのは容易に想像できる。
なぜなら、「子供の健康を理由に休暇を取るリスクがある母親は日本的ビジネスの効率化を妨げる」からである。
そして、今ではたびたび週刊誌に掲載されるように、育児休業などを取った母(父)親に対する成績評価は、本人の能力や資質を度外視し、「会社に迷惑をかけた」という理由で低くされる場合が多いという。
これで、子供を育てながら働こうという意欲が湧くだろうか?
ベビーシッターを雇える金持ちか、母親(子供のお祖母さん)の支援が得られない限り、精神的に耐えることはできないように思える。
仕事と子育ての両立を支援するという政府の掛け声がむなしく聞こえるのは決して私だけではあるまい。

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ジョージ・オーウェルの「1984年」の世界

ジョージ・オーウェル(George Orwell)が書いた「1984年」(日本語訳本)という本がある。
これは、スターリン時代のソ連を連想させる全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いている。
そこで描かれている全体主義国家では、官庁や制度に冠された美名と実態が完全に裏腹で、オーウェルはこれを「新語法(ニュースピーク)」という概念で「二重思考(ダブルシンク)」と呼んでいる。

War is peace.(戦争は平和である)
Freedom is slavery.(自由は屈従である)
Ignorance is strength.(無知は力である)
1984 by George Orwell

「二重思考(ダブルシンク)」とは、一つの精神が同時に相矛盾する二つに信条を持ち、その両方とも受け入れられる能力のことをいう。(Doublethink means the power of holding two contradictory beliefs in one's mind simultaneously, and accepting both of them.)
端的な例は、黒白(blackwhite)という概念で、敵に対して使うときは明白な事実に反して、黒を白と言いくるめる習慣となり、味方に対して使うときは、トップが要求すれば、黒を白と信じ込む能力であり、さらに黒を白と認識する能力であり、かつては黒は黒と信じていたとしても、それを忘れてしまう能力のことを言う。
要するに、例えば実際は戦争状態なのに平和であると自ら信じ、相手に対してそう言いくるめることができることをオーウェルは「二重思考(ダブルシンク)」と呼んでいる。

また、訳者の新庄哲夫氏は、この本は「現代のわれわれ」にとっても重大な示唆があるという。
それは、人間の尊厳を脅かす実体が普遍的な問題として予言されているからであり、未来のはらむ危機と現代の政治的な荒廃とが、権力の構造ないし論理を抜きにしてはまったく考えられないからだとしている。
おわかりだろうか。
これ、すなわち日本の政官財、特に「失われた10年(Lost Decade)」の日本のリーダーたちの言動に当てはまるだろう。
そして、暗いニュースリンク−政府があなたに熟考してほしくない由々しき情報の管理者であるDeepthroat氏は、小泉自民党の総選挙大勝後(2005年9月11日後)の日本を、新語法(ニュースピーク)時代の日本として皮肉ったのである。
もっとも、私ならこう言うだろうが・・・

Danger is safety.(危険は安全である)
Fiction is policy.(虚構は政策である)
Intimidation is initiative.(恫喝は指導力である)
by Carlos Hassan

引き続きジョージ・オーウェル(George Orwell)の「1984年」の一節を紹介しよう。
一通り読んで今の日本の姿と酷似しているとは思わないか。
プロレ階級はもともと「無産階級、労働者階級」という意味だが、これをサラリーマン階級に置き換えることができる。
思想警察の手先は政府の意を受けた大メディア連合に、危険人物になる恐れがあると判定された数人の者は、「今日の一言(2003年11月8日)」にあるような人物のことを、抹殺は社会的にという意味を含めて解釈すればピッタリくるだろう。

George Orwell 1984 - Part I - Chapter VII
To keep the proles in control was not difficult. A few agents of the Thought Police moved always among them, spreading false rumours and marking down and eliminating the few individuals who were judged capable of becoming dangerous; but no attempt was made to indoctrinate them with the ideology of the Party. It was not desirable that the proles should have strong political feelings. All that was required of them was a primitive patriotism which could be appealed to whenever it was necessary to make them accept longer working-hours or shorter rations. And even when they became discontented, as they sometimes did, their discontent led nowhere, because being without general ideas, they could only focus it on petty specific grievances. The larger evils invariably escaped their notice.
プロレ階級を統制するのはわけもない仕事だった。思想警察の手先が何人か絶えず彼らの間を移動し、流言蜚語をばらまきながら、危険人物になる恐れがあると判定された数人の者をマークし、抹殺してしまうのである。
しかし、党のイデオロギーを植え付けるといったような努力は全く行なわれなかった。プロレが強い政治的感受性を持つのは望ましいことではなかった。
彼らに要求されるものといえは素朴な愛国心だけで、労働時間の延長や配給の削減を受諾させる必要が生じた場合には、その愛国心に訴えさえすればよかった。
そして不満を抱くようになった時でも、そんな場合は間々あったが、不満のはけ方は一向に生かされなかった、彼らは一般的なものの考え方を欠いていたので、くだらない特定の不平不満に集中するしかなかったのである。大きな諸悪は常に見落とされたのであった。(訳者 新庄哲夫)

■見逃された大きな諸悪

高度経済成長から二度の石油ショックを乗り越えるまでの日本のリーダーたちは、現代に生きる日本人ならば最敬礼をしなければならないほどの功績があった。
今、私たちが経済大国と言われる日本で豊かな人生を送れるのは彼らなくして語れない。
しかし、残念なことに彼らの後釜に座った人間の多くはそうではなかった。

そう、本当の諸悪はバブル時代から1990年代前半にかけて政官財の中枢にいた人間である。
このことは、知性も責任感も失った白髪の貴族たちというエッセイで十分書いたつもりである。
彼らは政治的陰謀を巡らし、日本経済を崩壊に導いた超A級戦犯でありながら経済犯罪の遡及時効である5年を悠々と逃げ切った奴らだ。
金余りと言いながら従業員には「不況に備えるために」とほざいてほとんどその恩恵を与えず、過労死が社会問題になっても放ったらかし、バブルに浮かれて高値掴みした株と土地などの不良資産、そして怪しげなところに貸し出した焦げ付き債権を抱えて本業まで傾けさせた戦犯たちだ。
当時、50代から60代前半の世代、今や65歳から70歳後半ぐらいまでの人物たちだ。
1990年のバブル絶頂時、少年少女だった人にはもっとわかりやすく言おう。
昨年の12月以降、耐震強度偽装問題で黒幕として話題になっている、総合経営研究所(総研)の所長を務める内河健(71)と同類の人間だと言えばわかるだろう。

耐震強度偽装事件に関する「きっこのブログ」記事一覧

ああいうのが1990年代には腐るほどいて、そのたびにニュースになったが、ほとんど誰も罪に問われなかったのだ。
その中でも最も酷いのが、バブル当時にヤクザと結託した銀行と結びついた政官財のエリートで、その同じ狢の銀行や腐った企業をバブル崩壊の窮地から救済するために、低金利政策が実施され、健全な貸出先企業とその従業員までも生贄の羊と化したのである。
そして、彼らを助けた残党、ジョージ・オーウェル(George Orwell)の言う「偉大な兄弟(Big Brother)」の片割れは紛れもなく竹中平蔵大臣だ。「今日の一言(2005年8月27日2005年8月19日)」


■利用された愛社精神と仕組まれる憎悪週間(Hate Week)

All that was required of them was a primitive patriotism which could be appealed to whenever it was necessary to make them accept longer working-hours or shorter rations.
彼らに要求されるものといえは素朴な愛国心だけで、労働時間の延長や配給の削減を受諾させる必要が生じた場合には、その愛国心に訴えさえすればよかった。

英字紙"Japan Times"の定義によれば、終身雇用制度(lifetime employment system)とは、生涯にわたって従業員を雇用するシステム、これは従業員の企業への全面的忠誠と引き換えに定年までの雇用が保障されるとしている。
(Shushin-koyo is the lifetime employment system. Employees are guaranteed employment until retirement age in return for their absolute loyalty to the company.)

1990年代前半まで、一流企業に勤めるサラリーマンにとって会社は永遠であった。
1974年秋に読売ジャイアンツの長嶋茂雄が現役引退するとき、後楽園球場で涙ながらに絶叫した「巨人軍は永遠に不滅です」という言葉は自分の勤める会社にそのまま当てはまった。
そんな彼らに必要とされたのは、第一に愛社精神であり、上司への擬似家族愛であり、決して仕事の遂行能力は最優先事項ではなかった。
事実、バブル時代のオジサン管理職の実態を書いた「おじさん改造講座/清水ちなみ・古屋よし著」はそんな彼らの能力を証明している。(2005年2月23日「今日の一言」

しかし、バブル時代を通じて悪魔に魂を売った白髪の貴族たちは、バブル崩壊によって傾きかけた会社を立て直すため、責任者の自分が退くのでなく、途方もない流言蜚語をばらまきながら、擬似家族愛を傾けてくれた部下に過酷な命令を下した。
「君たち中高年社員は能力の割りに給料が高すぎる。会社のために辞めてくれ!」
一部の者はその理不尽な要求にも唯々諾々と従ったが、残りの者はバブル経済崩壊後の低成長時代においても、自らの地位を死守することに情熱を傾けた。誰が何を言おうとも選択肢がそれしかなかったからだ。
しかし、そんな理不尽な要求をされたにもかかわらず、彼らは自分の先輩に反旗を翻すことはなかった。
司法当局に訴えることも、面と向かって怒ることもほとんどしなかった。
もちろん「労使協調」などと言われ懐柔されていた御用組合がその責任を果たすことはまるでなかった。

そう、彼らには扶養する家族と、半生をかけて返すべき借金(住宅ローン)があったのだ。
会社に反旗を翻したりすることが自分の生活を脅かすと本気で信じていたかもしれなかった。
もちろん、若手の雇用がどうなろうと、そんなことは知ったことではなかった。
たとえ、それが自分の子供に降りかかったとしても、そのときは自分が扶養する期間が多少延びると思えばいいだけだった。
それが、フリーターやニートを増やす間接的要因であったとしても、それを解決するのは政府の仕事と決め付けられていた。

しかし、個々の官庁の役人がそんな大問題を解決できようはずもなく、少なくともその解決法を生み出すのは行政官の仕事ではかった。

それでもメディアは時折国民の味方のような振りをして、役所に対する「憎悪週間(Hate Week)」を演出し、国民のウサ晴らしの手助けをするが、生贄とされた者が「人民の敵(the Enemy of the People)」として罵られるだけで何の解決もみなかった。(中野雅至著「はめられた公務員」)
そして、その「憎悪週間(Hate Week)」が最高潮に達した瞬間が2005年9月11日だった。
メディアの大応援団に乗せられて小泉自民党を支持したのは、伝統的な「小さな政府」志向の富裕層にも増して、都市部の下流階層の人たちと、竹中プロパガンダ(propaganda)で言うB層に該当する人たち(にわか小泉支持層)であったと言われる。
共産党の言う、「小泉首相が郵政民営化を国民におしつけるのに、さまざまなウソとゴマカシを言っている。民営化すれば公務員が減らせるとよく言うが、郵政公社の職員というのは、一般の公務員と違って、昔も今も独立採算制になっていて、職員の給与などに1円の税金も使われていない。」のが事実だとすると、まさに「乗せられた」という言葉がピッタリくるだろうか。
そもそも慶応大学教授の金子勝氏に言わせると、小泉首相は4年間で250兆円もの借金を増やした張本人のくせに、それを公務員のせいにして国民の妬みをあおっていると酷評している。
そう、現代の「偉大な兄弟(Big Brother)」は小泉・竹中コンビであるが、陰の主役として登場した総選挙のときに広報本部長代理(武部幹事長の広報担当補佐)を務めた世耕弘成(せこう ひろしげ)参議院議員は、まさにオーウェルの言う真理省(Ministry of True/表向き報道・娯楽・教育・美術を所管するが、実は虚構を所管する官庁)の大臣とも言えるだろうか。


■切り捨てられる本当の弱者

経済開発協力機構(OECD)が2005年2月に公表した「OECD諸国における所得分配と貧困(OECD Social, Employment and Migration Working Paper No. 22 / PDF)」によれば2000年時点での貧困率(poverty rate: PDF Page 21: source: calculations from OECD questionnaire on distribution of household incomes (Excel): Fig 6)が15.3%となって、断トツのメキシコ(MEX)の20.3%、次いでアメリカ(USA)の17.1%、トルコ(TUR)の15.9%、アイルランド(IRL)の15.4%に次ぐOECD諸国25ヶ国(平均10.2%)中、第5位にランクインしてしまったのだ。
もっとも、この貧困率は、国民の標準的な所得の半分を基準にして、それを下回る所得しかない人を「貧困」とみなしているため、その人の絶対的な貧しさでなく、その国の中で所得格差が拡大しているとの表れということだ。

次にジニ指数(Gini coefficients: PDF Page 10: Excel Fig 1)という所得格差を表す数値(0だと平等、1だと格差無限大、それを百分率(multiplied by 100)表示にして30以下だと格差は小さいといわれている)を見ると、最も最近の調査対象年である2000年時点で日本は31.4と格差拡大傾向にあると言えるだろう。

所得だろうが学力だろうが格差があるのは仕方がない。
どんな国でも完全に平等なんていうことはないし、そういうことを言うのはまやかしでしかないからだ。
重要なのは、貧困層、日本で言えば生活保護世帯やそれに近い人だろうが、そういう人に対するセーフティネットが十分であるか、そして貧困層からでも努力すれば立ち上がれるシステムがあるかということだ。

世界の流れをつかむ『World Report』というサイトがあるが、ここでは月2回ほど社会情勢に関する記事がアップ(一部有料会員向け)されていて、ここ1年間を見ても日本の貧困層に関して、隠される生活保護世帯数と切り捨てられる弱者(2005.10.15)貧困に喘ぐ日本人(負け組み)の激増(2005.8.1)日本社会の崩壊(勝ち組・負け組)(2005.6.1)経済の回復と生活保護世帯の急増(2005.4.15)というものが書かれている。

ところが、日本では政府の社会保障給付(児童手当・失業給付・生活保護など)が低所得者向けの所得再分配が他の国に比べて低く、パートなどの非正規雇用者の給与がかなり低く抑えられているために、母子家庭などの貧困世帯の人々は這い上がるどころか日々の生活にも困窮するありさまであると、「這い上がれない未来−9割が下流化する新・階級社会」を書いた藤井厳喜氏は言う。
また、彼は「格差」が個人の努力と能力の結果を正当に示すものなら、「新・階級社会」は歓迎すべきものと言っているが、今の日本はエセ改革のおかげで、ますます国民は貧乏になっていくと断じている。

日本では、国鉄、電電公社が民営化され、そして今度は郵政が民営化されるが、地方分権をおざなりにしたままにしたために、過疎地の不採算部門は次々に撤退し(これは民営化の当然の結果)、地方に住む真の弱者にとっては、生活インフラが破壊されている事態に陥っているところもあると聞く。
生活の場から鉄道がなくなり、町中から公衆電話が消え、そして郵便局が消える。
車も携帯電話もパソコンも持てない人にとって、これがどういうことか想像してみるといいだろう。
全体の利益からしてこれらの民営化が望ましいという結果になったとしても、彼らに対する公の配慮というものはあって然るべきだ。
しかし、小泉首相はそれをも「役所の無駄」としてけなしているように見えるのだ。


■小泉首相の目指す改革はロシア型のエセ改革か

小泉首相は口を開けば「改革なくして成長なし」と言うが、彼の言っている改革の成果による「勝ち組」は、どちらかと言えば、旧ソ連時代に赤い貴族と呼ばれたノーメンクラトゥーラ(nomenklatura=the ruling elite of communism)が、ロシアになってから突然に新興実業家となって今度は資本家として闊歩している様子に似ている。

確かに規制緩和や自由化によって今までよりはビジネスがやりやすくなっただろう。
でも本質的な部分はライブドアのホリエモンが赤裸々に見せてくれているではないか。
2004年から2005年にかけて彼はプロ野球の近鉄買収、そしてニッポン放送株騒動を通じてガチガチの規制業界に殴りこみをかけた。「今日の一言(2005年2月28日2005年2月10日2004年7月5日)」
そのときの政治家と財界人の醜態、ホリエモンに対する態度は今思い出しても虫唾が走るくらいだ。
そのときクソミソに言っていた彼らが、ホリエモンが郵政解散選挙(2005.9.11)で広島六区から小泉自民党の半ば公認候補で立候補すると、改革の旗手とおべんちゃらを振り撒き、今や敵対していたはずの経団連まで入会を認められたお陰でテレビ界も掌を返したような大歓迎、まるでアイドルのように出演している。

そう、これらが日本のエセ改革や規制緩和ごっこの本質的な姿だ。
改革も規制緩和も、あくまで「白髪の貴族たち」の権益を侵さない限りにおいて、なのだ。
下から這い上がって成功する、というようなジャパニーズドリームなんて一部の例外を除いて夢の夢だ。
つまり、本来はいなくなっているはずの旧「勝ち組」が未だに居座り、新旧交代のジャマをしているのが日本の本質的な姿だ。
もちろん、小泉首相が「命を賭けた」郵政民営化もババを引くのは平局員だけで、彼らは下流階層転落の憂き目にあう一方で、上層部は民営化になったときは、「改革の旗手」として小泉チルドレンとなった元官僚議員や2世議員と同じように高笑いして再登場するのだ。
何でか?
小泉政権下で、特殊法人が独立行政法人になったものの、いっそう焼け太りしたあげく、マスコミにも叩かれなくなって高笑いしている幹部の様子と、将来の民営郵貯の上層部の姿がダブって目に浮かぶからだ。
それに腐臭プンプンのNHK改革はどうなったのか。
白髪の貴族たちの御用メディアだから何の改革もせずそのままにするつもりか。
また、今のまま受信料の徴収率が悪化し続け、決算収支が赤字になったら税金(公的資金)で補填するつもりなのか。

ちなみに2005年12月16日、あれだけ大騒ぎした米国産牛肉の輸入が再開されたが、その経緯はまるで国民の健康などどうでもいいというレベルの作為が行なわれているという。(米国産牛肉輸入問題関連の記事
人間の生活に欠かせない「衣食住」の安全が図れないで何の改革なのだろうか?

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日本の企業社会が抱えるウラ側の真実

■選択肢のなかった中高年−企業に居座る彼らが若者をはじき出した

2001年5月に日本経済新聞社が出した「なるほど!不思議な日本経済」という本の中で「増え続けるフリーター−日本経済は大丈夫?」というコーナーがある。
これによると、「45歳以上の中高年の正社員の相対的比率は1990年代を通して減るどころか増えているとあり、厚生労働省(旧労働省)の統計によると、従業員が1000人以上の大企業に限れば、正社員の割合が1989年の27%から1999年の33%に上昇している(学習院大学教授・玄田有史氏)」そうだ。
要するに、若者の多くがフリーターをやっている理由の一つは、企業が正社員を雇えないために派遣社員やアルバイトで対応してきたことによるもので、フリーター増の背景には「正社員の高齢化、滞留がある」と論じている。

今や正社員になれずに派遣社員やフリーターを続けている若者は、その多くが低収入かつ不安定で結婚や出産などもままならない状況下にあると言われている。
事実、上記の新聞記事でも、「内閣府では、急速に少子化が進む背景を、「フリーターやニート(就業、就学、職業訓練のいずれもしていない人)の増加で、経済的に不安定で結婚ができない若者が増えたことや、結婚しても教育費の負担増を考え、子供を産まないケースが増えたことも影響しているのではないか」と分析している。」とある。

また、2005年10月4日号のSPAには「28歳からの就職ドキュメント−今、フリーター&無職から正社員を目指すとこうなる」という特集があり、「企業の人事は1年以上のフリーター経験をキャリアのブランクと見る」とされていて、こういう採用側の頑なな姿勢が、人生の逆転を難しくさせ、なおのこと若者の非婚化、ついては少子化に拍車をかけているのではなかろうか。

要するに、ただでさえ数少なくなってきている正社員のパイを強固に既得権化させ、成り上がりや再起が難しい世の中を作っているのは我々「中高年」自身なのかもしれない
それでいて、フリーターがどうしようもないだの、年金財政が危ないだの、少子化を何とかしろ、だのおこがましい限りだと思うがいかがだろうか。

事実、日本通の一人として知られるピ−ター・タスカ(Peter Tasker)は「不機嫌な時代 (JAPAN 2020)」という本の中でこう書いている。

既得権の牙城を死守する中年男性
日本ほど業界団体が発達している経済はない。競争相手でありながら、情報交換といった大義名分で、定期的に業界関係者が集まったり、ロビー活動をしたりしている。そうしたなかで競争をしてきたわけで、もちろん業界のプレイヤーたちのあいだでも利害は錯綜しているけれども、一つだけ共通点がある。

それは新規参入を妨害することである。

もう一つ効率性を妨害している再配分連盟(redistributional coalition=新規参入を妨害するさまざまな規制によってメリットを受けている業界、団体)は、「中年男性」である。

日本の女性たちが労働市場で競争することは、ほとんどなかった。それは中年男性が労働市場=男性市場をつくってしまったからだ。

これに比べて欧米では、女性たちが労働市場に参入して、賃金を引き下げる役割を演じた。賃金のダンピングはひじょうに強烈で、いちばんダメージを受けたのは中年男性にほかならない。イギリスではセクシヤル・ハラスメント訴訟の三割は男性から起こされているほどである。

最近話題になった裁判のひとつは、ある大手新聞社の女性編集長が訴えられたことである。
女性編集長が、なんと35歳以上の男性をすべてクビにしたのである。かれらの考え方が古いために、読者は新聞を買わないのだというのが理由だった。この新聞社に20年働いていた42歳の男性が裁判を起こしたのである。

性的な差別、年齢的差別はとくにサービス産業に多い。ある程度の年齢になると、若い人たちと競争できないという説がある。そのうえ女性たちの労働市場への流入があるのだから、欧米の中年男性はひとたまりもない。

しかし、日本では再配分連盟化した「中年男性」が、高賃金という既得権の牙城を死守しているのである。

また、一時期、雇用を増やすための一手法として期待されたワークシェアリングは、労使双方にほとんど一顧だにされずに表舞台から消えうせた。
日刊ゲンダイに寄稿している魚住昭氏も「連発するメディアの不祥事を防ぐ方法」という記事の中でそのようなアイデアを披露したが、高給を自ら手放す良心はメディアにはなかった、と結んでいる。
しかし、今のご時世では「良心」がないというより「仕方」がないという方が強いように思える。
要するに、「記者や幹部の給料を半分に減らして浮いたカネで記者を大幅増やしたらいい。そうすれば各自の労働量が格段に減り、自由時間が増える。無用なストレスや疲労からも解放される」というのはワークシェアリングの発想にもつながり、現在、非正規雇用で働いている人に報いてやるための原資も捻出できるはずなのだが、それがオランダなどでは可能で、日本ではできないというのは、根本的な原因があるのだ。

連発するメディアの不祥事を防ぐ方法
(2005.11.29 日刊ゲンダイ)
メディアの不祥事が相次いでいる。
朝日の偽造メモ、NHKの放火事件は言うに及ばず、読売ウィークリーのネット情報引用の発覚や産経の合成写真掲載など数え上げればきりがない。

なぜ、こんなことが起きるのかと不思議に思われる読者も多いだろう。
しかし、同じ業界に寄食する者として言わせてもらえば、その原因ははっきりしている。
ここ20年ほどの間の絶えざる労働強化と管理強化で一線の記者やカメラマンたちの心が虚無感と疲労感と倦怠感に蝕まれているのである。

昔の話で恐縮だが、私は今からちょうど30年前、大学を出て共同通信に入社した。立派なジャーナリストになりたいと思ったからではない。
一足先に共同に入った大学の先輩から「共同というのは働かなくても給料をくれる、良い会社だぞ」と聞いたからだ。

実際に働き始めてみると、先輩の話がまんざらウソではないことが分かった。記事を書くのは多くても週に2、3回。それも大半は20〜30行ほどの雑報だ。
もちろん本社の社会部や政治部などでは先輩記者たちが忙しそうに働いていたが、それ以外の地方支局などではのんびりしたものだった。

そんな余裕が入社10年を過ぎたころから失われていった。仕事の量が急激に増え、「他社に抜かれるな」「訂正を出すな」「経費節減しろ」という指令が頻繁に現場に降りてくるようになった。そして上下の隔たりなく自由に議論する気風も消え、「もの言えば唇寒し」の空気が職場に蔓延するようになった。

結局、私が共同通信の20年間で見たのは職場が荒廃していく過程だった。同じ現象は他社でも起きている。
記者たちは競争心を過剰に煽られて孤立し、悩みを打ち明ける相手もいない。慢性的な疲労とストレスを抱えながら長時間過密労働を強いられる。
こんな状態でまともな神経を保てるわけがない。

「では、どうしたら改善できるのか」と新聞社の幹部などに聞かれるたびに、私はこう答えることにしている。
簡単ですよ。記者や幹部の給料を半分に減らして浮いたカネで記者を大幅に増やしたらいい。そうすれば各自の労働量が格段に減り、自由時間が増える。無用なストレスや疲労からも解放される

我ながらいい考えだと思うのだが、まともに取りってもらったことは一度もない。それはそうだろう。
高給を自ら手放すほどの良心がメディアにあるのならこんな事態にはなっていないのだから。(魚住昭)

■森永卓郎氏の言う「人生の不良債権」の衝撃

森永卓郎氏が「年収300万円時代を生き抜く経済学」の中で「住宅ローン・専業主婦・子供」を「人生の不良債権」と位置づけたことは、一般のサラリーマン家庭にとって衝撃的だったに違いない
高度成長時代から政府が標準モデル世帯としているのは、「住宅ローンで買った郊外の家に住む会社員(公務員)の夫に専業主婦の妻、子供2人」というものだし、生命保険会社や金融機関もそれを前提に商品を勧めていたし、今まで多くのサラリーマンは何の疑いも持たずにそうした生活を送ることを当然視していたのだ。
それを今更「違うんだよ。それは不良債権だ。何とかしろ。」と言われて、ハイそうですか、と言えるだろうか。
つまり、バブル経済崩壊後の低成長時代においても、「中年男性」が高賃金という既得権の牙城を死守しなければならない理由は、誰が何を言おうとも選択肢がそれしかないからだ。

果たして森永卓郎氏の言う「不良債権」は中高年サラリーマンにとってどうにかできるものだろうか?
たぶん答えはNOだ。
彼らに残された道は、少なくなったパイを奪い合う生存競争の中で、かつての仲間といえども蹴落としあうことだけだった。
しかもそこに参入させる若者は少なければ少ないほどいい
まして女性の参加は論外である。
当然ながらかつての系列(下請け)に泣いてもらうのは言うまでもない。
そして、彼らの会社に適用されるルールは、ほとんどの場合、「ダメだ!この会社−わが社も他社もまる裸」を書いた山崎元氏の言う「陰気な成果主義」である。
これは稼いだら稼ぎに見合った報酬を与えるから頑張れ、という本来の成果主義でなく、経営茶坊主の地位を安泰にしているだけの人件費抑制策に過ぎないものだと山崎は言う。
その陰気な成果主義の顕著だった例として「内側から見た富士通「成果主義」の崩壊」が書かれている。
しかし、これらのこともグローバリゼーションの中では蟷螂の斧(力の弱い者が、身の程も知らず、強い敵に立ち向かうことのたとえ)が如きあがいても徒労に終わるという現象が出始めたのが昨今の状況と言えるだろうか。
これらのことは、世のサラリーマンの多くが過酷な状況にあるのと、決して無縁ではないだろう。

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■マッチポンプの住宅政策

ダシにされるサラリーマンの悲劇
(fictionized by Carlos Hassan)
業績低下が伝えられる企業勤めや返済ラインギリギリの年収のサラリーマンにも住宅融資を行なっている銀行は、一方で彼らの勤める会社に従業員のクビ切りを含む経営合理化を迫る。
クビ切りや減給された彼らが返済に行き詰まるのは明白なのに、あえて金を貸す銀行。
そこにはリスク査定など何もない、単なるノルマをこなすだけの銀行の姿がある。
果たしてこれはごく一部の例外か?
あるいはバブル期に見られた合法的なイカサマの典型なのか?
田中恵一(35)はM物流の社員である。2年前に結婚した彼はマンションを買おうと物件を探していた。
折しも政府は住宅ローンの減税政策の実施を発表し、金利水準はこれ以上ないというくらい低かった。
田中夫妻はいい出物があったのを見て売買契約を結び、S銀行の当初10年固定金利、30年の住宅ローンを組んだ。

田中が住宅ローンを組んだとき、M物流の業績は低下しつつあったが、かつては一世を風靡した名門企業であった。
田中の年収はその時点では住宅ローンを返していく余裕があったが、社内はボーナスカットの噂が出始めていた。
その上、取引銀行であるS銀行は、従業員のクビ切りを含む経営合理化策を提示しろとM物流のトップに迫っていた。

とうとうM物流は全従業員を対象に希望退職を募り始めた。
しかし、住宅ローンを組んだばかりの田中はこれに応じることはできなかった。
数年後、田中は20%ダウンの減給を飲まざるを得なくなった。
この猛吹雪を耐え忍んだM物流はさらに数年後、業績が回復し、10年ぶりに増配すると発表して株価は急騰した。
新聞紙上ではS銀行と、M物流の業績回復、株価上昇を連日伝えていたが、田中の懐は子供が生まれた最近では、妻が働くこともできないため、年々寂しくなる一方だった。

日本では政府が都市住民のための満足な住宅政策をやってこなかった。
やったことは企業による地上げを後押しし、世界でも稀に見る高価な住宅をいかに(策を弄して)彼らに買わせるかということだけだった。
そのツケは多くの都市住民が人生の半生を費やして返済しなければならない借金となって跳ね返っていった。

それでも商品価格に彼らの返済原資(給与及び福利厚生施策としての利子補給)を製造原価として織り込めるうちはよかった。(その結果、東京は世界一物価が高いと言われた)
しかし、今や企業がその温情施策を放棄した結果、住宅ローンは、自らの命を削ってまで返済しなければならないことになり、その原資を捻出するために奇麗事を言っている余裕はなくなった。
少なくとも1990年代まで「持ち家」をすることは男の甲斐性と言われ、誰もが疑いを持たなかったハズだ。
それを今更「不良債権」と言われてもなす術がないのが実情だ。

私は21世紀になってから持ち家することについて「今日の一言(2005年6月4日2004年11月7日2004年6月27日2003年11月29日2003年10月31日)」で、そのリスクについて書き続けてきた。
なぜかと言うと、一流企業社員と言えども定年まで安泰でいられるとは限らない時代に、長期の固定債務を抱えることのリスクは一生を台無しにするほどのものであるからだ。
ジャーナリストの清谷信一氏も「耐震強度偽装問題」についてのコラムの中でこう言っている。
「この事件が起こるはるか前からぼくは自分の著書で、これからマンション買う奴は馬鹿だ、買うべきではないと警告してきた。もちろん例外もある。バブル以前の古いマンションをキャッシュで買うことだ。古いマンションはバブル期のマンションより間取りが広い場合が多く、しかも長年にわたって使用されているので問題があるかどうかわかる。」と・・・
また、2004年2月22日の「今日の一言」で書いたように、賃貸住宅市場も従来よりは賃借人寄りのスタンスを取る業者も出てきているので、こういった流れは今後強くなるだろう。

また、「ゴミ投資家のための人生設計入門」によれば、日本の一般的な住宅ローンは、ウイズ・リコース・ローン(with-recourse loan/遡及型融資)といって、債権者(銀行)に差し出した担保価値が下落し、融資額に満たなくなった場合、債権者はその差額を債務者に請求できるという、世界でも類を見ないと言われたほど、債務者にとって過酷なシステムなのだ。
一方、欧米を始めとする世界標準はノン・リコース・ローン(non-recourse loan/非遡及型融資)で、担保を債権者(銀行)に提供した段階で、それ以上の借金のリスクを負うことはなく、最悪の場合でも担保を失うだけでやり直しがきくのである。
つまり、この場合の物件の担保割れリスクは債権者(銀行)が負い、日本の場合は、債務者が負うことになり、究極の場合、自己破産や自殺(その結果としての団体信用生命保険の保険金での弁済や遺族の限定承認、相続放棄など)によって債務を消すという悲劇があるのだ。

ここまで言えば、薄々気づくだろう。
耐震強度偽装を始めとする欠陥住宅の問題は、日本の住宅ローンがノン・リコース・ローン(non-recourse loan/非遡及型融資)になれば、ほぼなくなるということだ。
なぜなら債権者(銀行)が担保割れリスクを持つならば、いい加減な建設工事を厳重に監視するからだ。
今、富裕層向け、あるいは企業向けの不動産投資には、このシステムによる貸し出しが行なわれ始めているが、個人の住宅向けとしては寡聞にしてない。
一つだけ言えるのは日本の住宅融資が相変わらずサラリーマンをダシにして儲けるためのものでしかないということだ。

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作られた専業主婦の職業的無能

サラリーマンの多くが給料が減らされている今、一番家計を助けて欲しいパートナーは妻であろうが、長い間、専業主婦となっていた彼女たちをパートでさえ雇ってくれるところがあるだろうか?
かつて一流企業の女性社員の多くを「職場の花」という名の元に、お茶くみとコピー取りしかさせなかったツケが、今や「ノースキル主婦」として回ってきている。
それを唯々諾々と受け入れ続けた女性側にも問題があるだろうが、かつて結婚退職が当たり前の企業文化の元に、既婚女性を職場から追放した男性社員にも大きな責任があるはずだ。

団塊の世代が定年退職ラッシュを迎えるということで、最近ではいろいろこの世代のことが新聞や週刊誌にも取り沙汰されている。
その中で朝日新聞が社説で「団塊のあした−ふたたび出会うために」というのを掲載していたのを読んでみた。
気になったのは、 「団塊の世代の結婚は、恋愛が見合いを上回る。職場結婚も多かった。女性のほとんどは寿退職して専業主婦になった。夫は外で働き、妻は家庭を守る。男性と女性の役割分業は、経済成長を推し進める国策でもあった。」の部分だ。
つまり、森永卓郎氏が「人生の不良債権」と位置づけたもののうち「専業主婦」は、かつての国策であったと、メディア自身が認めたということである。

団塊のあした−ふたたび出会うために
(2006.1.8 朝日新聞)

題名にドキッとした人もいたのではないか。
テレビ朝日系で放映されたドラマ「熟年離婚」は、20%近い平均視聴率をあげた。

週末だけの同居という形で、離婚の危機を乗り越えようとしている実際の中年夫婦がいる。ドラマに倣(なら)ってコウタロウ・ヨウコ夫妻と呼ぶことにしよう。

ふたりの出会いは35年前だ。東大出の若きエリートと、短大を出て就職したばかりのOLの社内結婚だった。社宅暮らしをする間に3人の子に恵まれた。
家の中がギクシャクし始めたのは、息子が思春期のころだった。
真剣に勉強しない息子に、コウタロウさんは不満を募らせた。
ヨウコさんには、夫の態度が一方的に自分の考えを押しつけているようにしか映らなかった。
父子の対立は、しだいに夫婦の溝をも深めていった。

実はそのころ、コウタロウさんは会社員生活の胸突き八丁を歩んでいた。
社内抗争に巻き込まれて昇進レースのトップランナーを自ら降りた。
職場でのストレスから心臓病を患ったこともある。

息子は高校を卒業しても家で昼夜逆転の生活を送り、安定しなかった。
夫はそんな息子に指図したり説教したりする。
ヨウコさんは防波堤になり、息子を信じて待った。孤独な闘いだった。やがて息子は立ち直り、働き始めた。

コウタロウさんが早期退職で独立し、家で仕事をするようになると、ヨウコさんのストレスが高まった。
夫婦の気持ちはすれちがい、父と息子の関係もよくなかったからだ。
コウタロウさんは仕事場を借り、家に帰るのは週末だけにした。

こんな暮らしが、もう7年になる。健康に不安があるコウタロウさんは、少し気弱になっている。
一方のヨウコさんは、「ときには夫婦で旅行もする。今がいちばん快適です」と語る。

団塊の世代の結婚は、恋愛が見合いを上回る。職場結婚も多かった。
女性のほとんどは寿退職して専業主婦になった。
夫は外で働き、妻は家庭を守る。男性と女性の役割分業は、経済成長を推し進める国策でもあった。
しかし、父親不在、母子密着の家庭は不登校や家庭内暴力など、家族のさまざまな問題を生む土壌となった。

1970年代半ばからは自立をめざす女性の動きが少しずつ活発になった。
それにつれて離婚も増えた。
近年は、20年以上連れ添った夫婦の離婚が目立つ。

2007年には、離婚時に夫の年金を分割して妻が受け取れるようになる。
それを機に熟年離婚が増えるとの見方もある。

だが「60歳のラブレター」(NHK出版)は5巻を数え、合計で約35万部も読まれている。
夫から妻へ、妻から夫へ。はがき1枚につづった恋文集だ。
長い年月を共に歩んだ者たちだけが抱く信頼や温かな情愛が胸を打つ。

父親と母親の役割から解き放たれる夫婦の第2ステージは、ふたたび相手を知ろうとするところから始めたい。
絆(きずな)を結び直すにしても、ほどくにしても。

1998年10月に日本長期信用銀行(現在の新生銀行)が破綻したとき、メディアはこぞって「かつての国策銀行はその役割を終えた」と報じた。
しかし、高度成長時代以来の国策であった既婚女性の専業主婦化政策は、1986年4月に「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」が改正(男女雇用機会均等法が施行)され、雇用における法的な男女平等の確保がされたときでさえ、一方で国民年金の第3号被保険者制度(専業主婦の国民年金保険料の実質無料化制度)ができて、既婚女性が専業主婦になることがいっそう有利になるように法改正がされていた。
その後、1990年代になっても所得税制、社会保険に関しての「専業主婦優遇」は変わらなかった。
これは、いくら法律が男女の雇用や昇進・昇給の平等を規定しても、それが適わないことを当の中高年男性が認識していたからにほかならない。

特に40代以上の女性の場合、独身時代に会社勤めをしていたときはワープロを使って仕事をしていればまだ恵まれているという世代だ。
今や、パソコンを使えなければ派遣の事務スタッフとして登録ができるかどうかも怪しい時代だ。
「うちの女房を雇ってくれるところなんかありませんよ」と自嘲気味に話す中高年男性のセリフは、そのまま「ほかの旦那の女房だってよほど(仕事ができるかコネがあるか)でなければ雇いませんよ」の裏返しでもある。
女性側にしても育児休業が終わったらいつでも働きたい、という人と、もう旦那という永久就職先でいいわ、という人の意識の差は明確なジョブスキルの差となって現れる。
そして、それは時として敵対感情として表面化することもある。(2005年7月25日「今日の一言」
男女雇用均等法施行以来、女性の社会進出はめざましくなったのは事実だが、未だに「既婚女性の専業主婦化政策」という国策は多くの中高年男性の心の中に宿っている。
それは低成長時代の現代においてそのまま自分の家計を直撃し、引いては社会全体の少子化を加速させていることを認識する者はほとんどいないのかもしれない。

少子化が問う社会
(女たちが日本を変えていく/日本経済新聞社)
■育児制度充実の成果

ほとんどの女性が働くスウェーデン社会の枠組み作りは高齢化が進んだ1970年代から始まった。
労働力不足を補おうと、まず配偶者控除を廃止、既婚女性の社会進出を促した。仕事を持つ妻が増え、少子化が進むと、女性が働きながら子供を育てられるよう託児所などの育児制度を整備。
これが効を奏して1980年代に入ると出生率(1人の女性が産む子供の数)が回復、1989年には2.0台に乗せた。
その後、財政悪化で育児関連予算を圧縮したことや、「出産ラッシュへの反動(政府)」もあって低下したが、なお欧州では高い水準だ。

米国でも女性の職場進出が加速した1980年代に出生率が上向き、2000年には2.13と先進国で最高となった。
スウェーデンと違うのは、政府というより民間市場が働く母親を支えた点だ。[働くママは会社の財産 (Newsweek Japan 1999.2.24 PDF)]
国立社会保障・人口問題研究所の阿部誠副所長は、「もともと転職しやすい市場だったうえ、サービス業の発展でパートタイムの需要が拡大、働く母親の追い風になった」と言う。

対照的に出生率(2000年)が低いのはイタリア(1.19)、ドイツ(1.36)、日本(1.36)。
なぜか第二次世界大戦の旧枢軸国がそろう。
「全体主義政権の人口政策への反発で、政府の介入がタブーになったことが背景」(原田純孝東京大学教授)という見方がある。

おそらく政府の少子化対策としては、30年前のスウェーデンモデルも検討されたことがあっただろう。
それが奇しくも小泉内閣が目指す所得税・住民税の配偶者控除の廃止の真の目的と合致するものなのだろうか?
それとも単に税収不足を補うための便法に過ぎないのだろうか?
もし、前者のような高尚な目的がないとすれば、やはり彼は単なるイカサマ師としか言いようがないだろう。
つまり、政策目標はオーウェルのいう「二重思考(ダブルシンク)」であるということだ。

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教育の機会不平等の現実

子供にきちんとした教育を受けさせるためには公教育だけでは不十分というのは周知の事実だ。
かつて財界が望んだ旧文部省の統制(マニュアル)教育が、今や破綻していることが明らかになったにもかかわらず、小泉内閣の下で悪名高い「ゆとり教育」が実行されたことをメディアがほとんど問題にもしないのは不思議なことだ
本当であれば、公教育の充実を政治家に訴えるのが有権者の義務でもあり、メディアはその対策を政府に迫ってもいいはずだが、ほとんど人は教師の質の悪化を嘆くのみで、塾通いと私立学校教育でそれをカバーしているのが実情だ。
しかし、昨今は学習塾大手が次々と株式上場を果たしたために、「公教育が充実していない方が(少子化の中でも塾通いの生徒が増え)株価が上がる」ので、政府も財界もメディアも公教育を充実させろとは言わなくなったのかもしれない。

要するに、ダブルスクールの費用が家計を圧迫しているのだが、三浦展氏の言う、格差は個人の資質や能力でなく、親の階層によってほぼ決まる傾向がある、というのは、親が子供のために塾通いと私立学校教育の費用を捻出できるか否かということである。
子供を社会の未来の宝と見ず、単なるビジネスツールとしか見ない日本の支配階級の発想の貧困さがますます少子化に拍車をかけると思うのは私だけだろうか?

いったい子供に満足な高等教育を施そうと思ったらいくらかかるか?
統計データとしては金融広報中央委員会の暮らしと金融なんでもデータがあるが、これを積み上げ計算するのは面倒だ。
そこで内職・お小遣い・副収入ナビというページからデータを拾ってみると、1人あたり22歳までに3000万円から6000万円かかるようだ。
これに住宅ローンと老後資金はと考えると、日本のサラリーマンが世界一の高収入を得ながら実際は幸福感を味わえないというのがデータとして裏付けられるような気もする。
また、これは夫が正社員として相当額の収入が得られるから可能な数値だというのがよくわかる。
ところで、夫が低収入であった場合、せめて子供だけにはという願いは叶うのだろうか?


■サービス業の24時間営業化

現状で、完全な「専業主婦」になれるのは富裕層あるいは高収入サラリーマンの妻だけだろう。
もっとも育児休業や介護などで一時的にという場合は除くが、昨今の若年サラリーマンの場合、共稼ぎでないと子育てはやっていけないというのが現実なのではなかろうか。

それでは、具体的に女性が最も活躍している第三次産業、いわゆるサービス業で働く人はどの雇用形態の人が最も多いと思うだろうか?
あえて言うまでもないが、日経連(現経団連)リポートから見てみよう。
彼女たちが一番雇われているのは雇用柔軟型、つまり有期雇用契約(派遣社員・アルバイト)だろう。

収入面についてはほかでも言われているので書かないが、今やサービス業は24時間営業が当たり前になりつつあり、夜の9時で終わる店を都市部で見つけるのが困難なくらいだ。
それで、子持ち、特に乳幼児がいる女性が、夜10時まで働けるか?(注:1999年4月から労働基準法改正で女性の深夜・早朝勤務が可能となっている)と言われて、ハイと言えるだろうか?
一方、彼女たちの雇用主が妊婦や乳幼児のいる母に配慮するだろうか?
たぶん、ギリギリのローテーションでやり繰りを、コストダウンが本社から至上命令とされている現場責任者は、「喜んで」とは言わないだろう。
私に言わせれば、スーパーや飲食店がこれほどまでに深夜営業をしなければならないとは思えないのだが、果たして採算が十分に取れているのか疑問を抱くような店舗も多いのだ。

こうなると、夫が妻を専業主婦として扶養できるレベルの収入がない限り、子供を産むのを躊躇するというのが現実ではなかろうか。
しかも小泉内閣は所得税・住民税の配偶者控除全廃に向けて舵取りをしている。
「働く女性(working women)」はこれを歓迎しているそうだが、「働く母(working mother)」を支援する態勢が不十分のまま社会進出せよでは、ますます経済格差、ひいては希望格差は絶望的なまでに広がるだろう。


■幼児保育・教育

小泉首相は2001年(平成13年)9月27日の所信表明演説で、仕事と子育ての両立を支援するために、保育所の待機児童ゼロ作戦と放課後児童の受入体制の整備を打ち出し、平成16年度までに、保育所等の受入児童数を15万人増加し、放課後児童の受入体制を15,000か所とする目標を決定した、と表明した。

しかしながら、現場で起きていることは彼の所信の目標(仕事と子育ての両立を支援)に向かっていっているのだろうか?
平成17年度少子化社会白書の中で掲載されている2005年7月の「小泉内閣メールマガジンの少子化対策アンケート結果」で第一位は、子育て世代に対する経済的支援を充実する、とあり、その中で「保育料または幼稚園費の軽減」が第一位として書かれている。
それに次ぐものとして、保育サービスの充実や働き方の見直しに関する要望が入っているが、いずれにせよ、これらの項目は「施策が充実していない」ことの表れということになるのだ。

今、各地で保育園の民営化が進められているが、ビジネスの原則に照らせば、民営の本質は「金を払った者だけがより良いサービスが受けられる」ことなのだから、低所得者夫婦にとっては「子供を保育園に行かせるな、妻は家にいろ」を意味する。
私が住んでいる横浜市の市立保育所の民営化Q&Aでは、今のところ「民間の認可保育所は、保育料のほか、国と横浜市からの公費(補助)で運営されていて、運営が困難になることはないと考えられないし、認可保育所における保育料は市立も民間も同じ」という回答があるが、採算を取るために、「保育士の賃金削減(質的低下)」や「保育そのものの質の低下」という懸念は常に付きまとう。
そして数年先、それが顕著になったとき、親の経済的格差による乳幼児保育の機会不平等は目に見えて明らかになるだろう。

保育所規制−安易な緩和は改革に逆行
保育園長・全国私立保育園連盟常務理事 水上克己
(2004.3.5 朝日新聞)
小泉首相の「聖域なき構造改革」の名のもとに、各方面で規制改革が行われている。
確かに不必要な規制も多いが、緩和してはいけない規制もあるのではないか。

私が携わっている保育の分野では、安易な規制緩和を進めることで、根幹が揺さぶられかねない影響を受けるものもある。
例えば、保育所に義務づけられた調理室の設備について、政府の総合規制改革会議は2001年7月の中間とりまとめで、義務規定(必置規制)を廃止すべきだとの考えを打ち出した。
それ以来、繰り返し、規制緩和を迫っている。

保育所は乳幼児のいのち(心と身体)を育む場であり、生活の場である。
そこに調理室がなくてもよいということは、まさに家庭に台所などなくてよいというのと同じだ。
日々の食事は、人がさまざまな食材を加工し、調理することで用意されるということを、実感を持って知らせることは子どもたちを育てるうえで極めて大切なことである。

保育・教育界のみならず「食育」の大切さが叫ばれるようになった。
調理室がなくてもいいというのは、こうした時代に全く逆行する措置と思う。
「乳幼児が育つということはどういうことか」を知らなすぎる改革論である。
しかも保育の分野に企業が参入しやすくすることや、幼稚園との一元化に向けて両者の差異を低い水準に合わせるという観点から議論されていることに、未来展望の貧しさを痛感せざるを得ない。

調理室の問題ばかりではない。保育をめぐる規制緩和は、着々と進められている。
クラスの担当は全員が常勤保育士である必要はなく、正規の保育士が1人いればよく、後はパートの職員でもいいように改められた。
その結果、保育士の雇用は不安定になり、職員集団としての質的向上を難しくしている。
また、複数のパート職員がローテーション勤務することで、@子どもと保育者との関係が不安定になるA保護者との連携が図りにくい、などの弊害が出始めている。

一方、保育士の配置基準は、1・2歳児の場合6人に1人、3歳児は20人に1人、4歳児では30人に1人だが、これは1969年以降そのままだ。
保育の長時間化、保育園による地域の子育て支援に伴い、保育士の仕事量が格段に増えているのに改善されない。
改革の方向がちぐはぐなのだ。

そんな中で、三位一体改革の一環として2004年度予算で公立保育所の運営費が国庫補助金から削られ一般財源化される。
各自治体とも、公立保育所の民間委託を低コストでどんどん進めることが危惧される。
一般財源化を契機に保育所の公私格差是正策を見直し、民間への自治体単独補助金を削減しようとする動きが出ている。
これが加速すれば、戦後五十数年かけて築きあげてきた公的保育制度が脅かされる事態になりかねない。

官民挙げて少子化対策を叫びながら、社会保障給付費に占める高齢者関係給付費が2000年度68%なのに対し、児童・家庭関係給付費は同3.5%にすぎない。
子育て環境は決して恵まれていない。
折しも、次世代育成支援対策推進法に基づいて全国の自治体で子育て支援の「行動計画」が策定されることになっている。
経済効率を優先させるあまり規制は悪と決めつけず、しっかりと吟味し、乳幼児を育む真の保育とは何かを追及する中で、子育て支援対策の充実を図ってほしい

元旦早々に以下の記事が新聞に掲載された。
果たしてこれが低所得者にとって朗報なのかは今後の議論の行方次第ということになりそうだ。
私に言わせれば、幼児教育よりも高等教育の見直しの方がより重要だと思うが、いかがだろうか。
いずれにせよ政府が危機感を持っていることは喜ばしいことではあるが・・・

幼稚園から義務教育、延長幅1〜2年−政府・与党方針
(2006.1.1 読売新聞)
政府・与党は、小中学校の9年間と定められている義務教育に幼稚園などの幼児教育を加え、期間を10〜11年間程度に延長する方針を固めた。
幼稚園−小学校の区分による環境の変化が学力のばらつきを招いているため、幼稚園を義務教育に含め、一貫した学習体系を構築するのが狙いだ。

幼児教育を無償にすることで、少子化対策を強化する面もある。1月に召集される通常国会に提出する予定の教育基本法改正案で義務教育の9年間規定を削除し、2009年度以降の義務教育延長の実現を目指す。

義務教育をめぐっては、近年、小学校低学年で、集団生活になじめない児童が騒いで授業が混乱する「小1問題」が起きている。幼稚園−小学校−中学校と進学するにつれ、指導の内容、難易度などが大きく変わり、成績格差が拡大する問題も指摘されている。

このため、政府・与党は幼稚園などの幼児教育を含めた義務教育制度の見直し論議に入っている。

自民党は、2005年9月の衆院選の政権公約(マニフェスト)に、「幼児教育の無償化」を盛り込んだ。1月にも、政調会の下に「幼児教育小委員会」を設置し、無償化の具体策として、義務教育延長を議論する。そのうえで、延長に向けた第1段階として、教育基本法4条で定められている義務教育の9年間という期間を削除する考えだ。

与党教育基本法検討会の議論の中で、公明党もこうした考え方を大筋で了承している。

自民党文教制度調査会幹部は、昨今の児童・生徒の学力低下を背景に、「諸外国も義務教育期間を延ばす方向だ。日本も真剣に検討すべき時期にある」と主張している。諸外国では、例えば、英国は5歳から11年間を義務教育とし、2000年から5歳未満を対象に無償の保育学校を拡充。フランスも1989年から公立幼稚園を無償にしている。

政府・与党は、今後、幼児教育をどういう形で義務教育に取り込むのか、調整を図ることにしている。

中央教育審議会(文部科学相の諮問機関、鳥居泰彦会長)では、2005年1月にまとめた幼児教育に関する答申で、「幼小一貫教育の検討」を掲げた。政府・与党内には、このほか、〈1〉幼稚園の1〜2年保育を義務教育とする〈2〉義務教育の枠内で、「幼小一貫校」を創設し、普通の幼稚園か一貫校かを選べるようにする−などの案が浮上している。

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■金持ちしかまともな高等教育は受けられない

子供に幸せになって欲しいという願いは親共通のものだ。
金を持つことだけが幸せではないが、先進資本主義国において金がないことは決して幸せとは言えないのも事実だ。
「学歴だけではない。ほかの道にも幸せはある」というのは事実だが、産業時代が終り情報時代に移行した今は、その情報を操れるだけの高等教育を受けなければ幸せになれないのでは、という恐怖を子を持つ親自身が感じているのだ。

漫画とドラマで大人気となったドラゴン桜でこういうセリフがあったのを覚えているだろうか。
「社会のルールってやつはすべて頭のいいやつが作っている。そのルールは頭のいいやつに都合のいいように作られているんだ。逆に都合の悪いところはわからないように隠してある。頭を使わずに面倒くさがってると、一生騙されて高い金を払わされるんだ。騙されたくなかったら、損して負けたくなかったら勉強しろ」

ところが、勉強しろと言われても前述したように公教育の質は小泉政権下に実施された「ゆとり教育」で奈落の底に落ちようとしているし、一部の自治体でそれを食い止めようと努力がなされているに過ぎない。
この「ゆとり教育」の一番の問題点は、低所得者層が高等教育を受ける機会を事実上奪われているということだ。
仮に日本の大学の質を「ゆとり教育」下の卒業生に合わせると、東大でさえ世界100位にもならないと揶揄される日本の大学のレベルは地に落ちるだろう。
UNESCO, OECD guidelines for quality provision in cross-border higher education (2005.12.5) ここ数年のうちにUNESCOとOECDは大学の国際的な認証評価制度を導入し、それをインターネットを通じて提供するとされていて、これが実施された場合、日本の大学の国際レベルが赤裸々になると言われる)
つまり、現状では公教育の質的低下を補うのは学習塾と私立学校であり、それができるのは親に経済力がある家だけということだ。
それに気づいた夫婦は、2人目の子供を欲しがったとしても、おそらく2人目を産むのをやめるだろう。

そして、財界の隠れた意図は、高等教育はグローバル経済に対応できる少数のエリートと、専門分野に通じたスペシャリスト候補にだけ施せばいいのであって、それ以外は「元気のいいバカ」を作り出せばいいというように思える。
かつての文部省のマニュアル教育がそうであったように、今の「ゆとり教育」も財界の意思が反映したものだろう。
そうでなければ、今の教育の現状に一番危機感を抱くのは彼らではないかと思うからだ。

ただ彼らも根本的なことがまるでわかってない。
それはトヨタの社員はインド人であろうが中国人であろうが構わないが、自衛官や警察官などの治安要員は日本人でなければイザというときに困るということだ。
少子化はその自衛官や警察官の要員候補も減らしているということだ。
身勝手なエゴイストたちはそんなことをまるでわかろうともしないのだろうか。


■国公立大学を独立行政法人化した罪

全国の国公立大学がほぼ一斉に独立行政法人となったのは2004年(平成16年)4月のことだ。
文部科学省は、これを

  1. 「大学ごとに法人化」し、自律的な運営を確保
  2. 「民間的発想」のマネジメント手法を導入
  3. 「学外者の参画」による運営システムを制度化
  4. 「非公務員型」による弾力的な人事システムへの移行
  5. 「第三者評価」の導入による事後チェック方式に移行

するとしたが、なぜ教育機関に官営が必要なのかと言えば、そもそも低所得者に対して教育の機会均等を名実ともに保証することにあるはずだ。
戦前の日本のように篤志家がいたり、アメリカのように奨学金制度が充実していればまだ救われるが、今の日本にはそのどちらも十分ではない。
奨学金事業は独立行政法人日本学生支援機構で行なわれているが、第1種奨学金の場合でも無利息とはいえ、卒業後の相当な年数を返済に充てなければならない現実がある。
そもそも奨学金を借りなければならない家庭は基本的に親が貧しいのであるから借入額が多くなること自体が問題なのだ。

むしろ国公立大学は学費を半減するとか無料とかにして、貧しくとも優秀な若者を育てる場とすべきなのだが、政府がやっていることは全く逆だ。
自律的な運営や第三者評価などちゃんちゃらおかしくて涙が出てくる。(故石井紘基衆議院議員が命を賭けた官僚総支配体制の打破
這い上がれない未来−9割が下流化する新・階級社会」を書いた藤井厳喜氏は、各大学は文部科学省に提出した中期計画という経営目標に沿って運営されるから、大学への予算配分は結局文部科学省の役人の裁量となる、となれば、各大学に監事や理事に官僚の天下りを受け入れるしかなくなる。さらに彼らは自分たちの給料を確保するために必ず学費を上げるだろうと、断罪しているのだ。
そして、その独立行政法人は、国会や会計検査院すらタッチできない伏魔殿ではないのだろうか。
もし、そうならば小泉改革はまやかしを通り越して詐欺とすら言えるのだ。


ここまで読んでどう思っただろうか。
いくら小手先の対策をやったところで根本的な問題を解決しなければ少子化は止められないことがおわかりいただけただろうか。

現在、政府がやっている「働く母(working mother)」への支援策、つまり金を配ることをいくらやっても効果がないのは、今の人たちが直面しているのは将来の不安だからだ。
若年者が直面する最大のものは、住宅問題と教育問題ということになるだろうか。
子供ができれば、より大きな家(部屋)がいる、教育費を想像しただけで卒倒だ。
妻が働いてくれればいいが雇ってくれそうなところはない。
会社の業績が悪化している、あるいは欝になりそうなほど働かされている、そんな会社を辞めたいのに辞められず、あげくの果てに自殺をするサラリーマンの多くがその問題を抱えていたのだろう。
その負の連鎖を何とかしない限り、もはやどうにもならないのだ。

住宅問題に関しては、消費者が持ち家(新築住宅)にこだわるのをやめることから始めるしかない。
ジャーナリストの清谷信一氏も「耐震強度偽装問題」についてのコラムの中で、「この事件が起こるはるか前からぼくは自分の著書で、これからマンション買う奴は馬鹿だ、買うべきではないと警告してきた。もちろん例外もある。バブル以前の古いマンションをキャッシュで買うことだ。古いマンションはバブル期のマンションより間取りが広い場合が多く、しかも長年にわたって使用されているので問題があるかどうかわかる。」と言っているし、2004年2月22日の「今日の一言」で書いたように、賃貸住宅市場も従来よりは賃借人寄りのスタンスを取る業者も出てきている。

中古住宅市場の整備、また低所得者向け賃貸住宅の整備などを政治家に訴え、民間にやらせるならそういった税制を作るように政府に働きかけるのが本来のやり方だが、日本の場合、そんなものを待っていたらいつになるかわからないので、「需要がないところに供給なし」の市場経済の原則に立ち返り、消費者が利口になるしかない。
黙っていれば、銀行や不動産業界の言うがままなのだ。損するのはあなた方だ。
「社会のルールってやつはすべて頭のいいやつが作っている。そのルールは頭のいいやつに都合のいいように作られているんだ。逆に都合の悪いところはわからないように隠してある。頭を使わずに面倒くさがってると、一生騙されて高い金を払わされるんだ。騙されたくなかったら、損して負けたくなかったら勉強しろ」とドラゴン桜の桜木先生も言ってるではないか。

教育問題は、自分が関係ないと思わずに、公教育の充実を訴えるしかない。
もし、今いる教師・大学教授がダメと思うなら、総取替えも辞さずの覚悟が必要なときだろう。
こんなことは、今までは無駄だと思って諦めていたことだろうが、2005年9月11日の総選挙の最大の教訓は「投票に行けば何かが変わる」ことを実感できたことだろう

誰かが何とかしてくれる、ではこのまま死すだけだ。
少子化問題は政府や企業だけの対策待ちというレベルを超えているのだ。

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移民は人口減社会の切り札か

冒頭の新聞記事にもあるように日本の人口減社会は予想外に早く到来するようだ。
仮に、これから本腰を入れて少子化対策をしても急速な高齢化とのバランスを取ることは難しいと言われており、そうなれば労働力だけでも外国人(移民)に頼るか、という議論は時を待たずして出るだろう。

しかし、移民というのは単に日本に遊びに来ている観光客と違って、仕事の場も生活の場も与えなければならないだろう。
そのどちらが優先するかと言えば、金がなければ生活できないのだから「仕事の場」が優先だ。
そこでだが、グローバル時代のいい会社・悪い会社(Newsweek Japan 2005.4.27)に面白い記事があった。

本誌とパイリンガル向け就職情報企業のダイジョブ社が日本で働いた経験がある外国人を対象に実施した調査によると、次も日系企業で働きたいと答えた人はわずか25%。66%が日本企業以外で働くほうがいいと答えた。
多くの日本企業にとって、海外にある子会社の従業員とどう接するかは、国内で働く外国人社員の扱い以上に切実な問題だ。
中国に進出した日本メーカーの多くは、大学新卒者を積極的に採用している。
ねらいは、中国流の労働文化に染まる前に日本式の愛社精神を身につけさせること。

だが、中国人はすぐに辞めてしまうとこぼす日本企業も多い。
今のところ、外国人を採用しているほとんどの日本企業は、外国人従業員を対象に日本の文化やビジネス慣行の研修を実施しているだけだ。
しかし大部分のコンサルタントは、そうしたやり方に賛成していない。
「外国人だけ教育しても、日本人の社員教育を行なわなければ効果はあげられない」と、コミサロフは言う。
(中略)
1999年にルノーと提携した日産は「日産リバイバル・プラン」の一環として、日本人社員と外国人従業員の両方に異文化研修を実施した。
この試みが提携の成功に役立ったことはよく知られている。

要するに、何が一番問題なのかと言えば、調査対象者のうち、「次も日系企業で働きたいと答えた人はわずか25%。66%が日本企業以外で働くほうがいいと答えた。」ということだ。
この調査が日系企業に関わったすべての外国人の意見を代弁しているとは思わないが、少なくとも過半数は次の勤め先を日系企業には選ばないと回答しているのだ。
グローバル時代というのは、そういう情報が瞬時に、しかも同じ階層の人間に伝わることを意味する。
もし、有能で高スキル(上位階層)の外国人が次々にそういう感情を抱けば、何年か先には日系企業に優秀な人間は来ないことを意味するのだ。
移民が日本経済を支えるどころか、お荷物となって暴動を起こすかもしれないのだ。

それに私の経験で言わせてもらえば、「相手がオレに合わせるのは当たり前だ」という考えが未だに多くの中高年管理職には根強いことだ。
実際に実務をしきるのはトップや一部の幹部ではなく、現場のリーダーだからこそ問題だ。
確かに日本の諺では「郷に入れば郷に従え(Do in Rome as the Romans do.)」というものがあり、これが他国や他人のテリトリーでの摩擦を減らしている意味ではいいことであることは認めるが、外国人がそう思っているかは別問題だ。
グローバル化を迫られている国際的企業がこのありさまでは、ほかのドメスな企業や役所(仮に外国人の雇用を認めた場合)などおして知るべしだ。
むしろ不法在留の外国人でも雇わなくてはならない中小企業の方がはるかに進んでいるかもしれないのだ。

中国に進出した日本メーカーの多くは、大学新卒者を積極的に採用している。
ねらいは、中国流の労働文化に染まる前に日本式の愛社精神を身につけさせること。

こういうものが2005年に発刊された雑誌の記事に載るとは正直思わなかった。
なぜ、1990年代前半まで一流企業と言われている会社が(役所は未だに)新卒以外を原則として雇用してこなかったかというのは、まさにこの理由によるものだ。
中途入社者・帰国子女・海外青年協力隊経験者、あるいは外国人は、ほかの社会の文化に染まっているから、できれば採用したくない、というのがかつての企業の本音だったのだ。
それが未だに亡霊のように生きていることに私は一種の恐怖を感じざるを得なかった。

1990年代後半になって突然グローバル経済の時代だ、これからは人材の多様化を図らなければ企業は生き残れない、という大合唱のもと、そういった流れにたやすく乗れた企業とそうでないところ、内部においてもそういう考え方に切り替えられる人と、そうでない人が同居しているのが現実なのだろう。
私に言わせればグレシャムの法則(Gresham's law)である「悪貨が良貨を駆逐する(Bad money drives good money out of circulation.)」とならなければいいとだけ思いたい。

そして、先月上旬、ある掲示板で女性陣の間で「外国へ行ってみればものの見方とかが確実に変わりますよね。逆に日本のこともよく見えるようになるし、政治家とかみんな長期ひとり旅でもしてきたらいいんです。」「激しく同意!!!!長期じゃなくて2週間でもいいからバックパック旅行でもしてこいと。つか、1度ワタシがつれて回ってやりたいわ。」という応酬があった。
私には「世の中には多様な価値観がある」ということを全く理解できないドメスな男たちへの怒りのように思われた。

グローバル時代の「いい会社」とは、人材を国際化するだけでなく、文化の違いをエネルギーに変えられる企業。
そう定義される時代に向けて、多くの日本企業はすでに走りはじめている。
急がないわけにはいかない。
置いてきぼりを食えば、世界中の優秀な人材から「村八分」にされかねないのだから。

Newsweek Japanの記事はこう締めくくっている。
そう、世界中の優秀な人材から「村八分」にされた後で、不用意に「外国人労働者に対する鎖国の扉」を開ければ入ってくるのは流民と犯罪者だけだ。
そうなってからでは遅いということに多くの人が気づくことを祈りたい。


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